May 02, 2006

【やなか百景】ぼたん祭-上野東照宮で5日まで

Yanaka060502_72 Yanaka060502_3_72  2日-上野東照宮(台東区上野公園9-88)で、ぼたん祭が5日まで行われ、290品種、3800株植えられたぼたん苑の春ぼたんが見頃です=写真左

 このぼたん苑は、1980年に日中友好を記念して開苑され、白、ピンク、真紅、黄、白赤混色の色とりどりの花で、大輪だったり、八重だったりと様々に、また、芳香も蒸せるような濃厚だったり、清楚ですがすがしかったりと視覚、嗅覚にと楽しませてくれます。Yanaka060502_4_72

 苑内の貴重な中国ぼたんに黄緑色で丸い花をつける「豆緑(とうりょく)」がありますが、今年は残念ながら発芽がつかなかったという看板がありました=写真右下。 

 春ぼたんの開苑は5月5日(金)の午前9時~午後5時まで(入園締め切り)。拝観料は、大人600円、団体(20人以上)500円、高校生400円、中学生以下無料。苑内に、甘酒やお団子などのお休み処があり、また、境内には、ぼたんの即売もあります。

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May 01, 2006

【やなか百景】こいのぼりが園庭の空一杯に泳ぐ-台東初音幼稚園

Yanaka060501_5  1日-台東初音幼稚園(台東区谷中5-2-4)の園庭に、端午の節句を祝う鯉のぼり2匹、黒の真鯉(おとうさん)と赤の緋鯉(おかあさん)の姿が見られます=写真

 話によると、園庭が狭くて飾れない他の幼稚園からいただいたもので、今年初めて飾ったとのこと。テントのように園庭の空いっぱいを覆って泳ぐ姿はダイナミックで、子供たちの成長を願う気持ちが伝わってきます。

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April 18, 2006

【やなか百景】五重塔-東京国立博物館の庭園

Yanaka060418_72  18日-東京国立博物館の庭園は春と秋の2回、庭園が開放され、散策できます。16日まで開放されていました。

 写真は、庭園にある五重塔です。高さ570センチ。銅製です。最上部の相輪には竜が絡みつき、屋根を構成している木材の組み方などの細部まで入念に作られています。

 基壇に第五代将軍徳川綱吉公(1646-1709)が法隆寺に奉納したという銘文「大和国法隆寺元禄元年十二月日常憲院徳川綱吉」が線刻されています。同博物館の案内によると、綱吉の存命中に院号と俗名を併記することは一般的にないので、没後に奉納時の年号と施主の銘文が書き加えられたのだろうとしています。

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April 16, 2006

【やなか百景】築地塀が破損、300年前の瓦あらわに-本行寺

Yanaka060415_72  Yanaka060415_2_72 16日-本行寺(荒川区西日暮里3-1-3)の築地塀の修復工事が行われています。工事を請け負っている事業者によると、この築地塀は300年ほど前に作られたものだということです。断面をよくみると内部の土の外に黒い層があり、さらにその外に白い漆喰(しっくい)が塗られています。白い部分は土佐土(とさつち)の漆喰で塗り固められたものです。Yanaka060415_3_72

 内部の土が崩れ落ちないように3年前に黒い層から外部は修復されたのですが、修復した人たちも、どのように作られているのかを初めて見ることになったということでした。 どのような経緯の破損かは伺いませんでしたが、300年前の仕事があらわになりました。

 ちなみに、塀の上部に葺かれた屋根瓦は、宇治の平等院の屋根に葺かれる瓦を焼いている窯元で作ってもらい、7年ほど前に新しくしたということでした。

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March 21, 2006

【やなか百景】彼岸の中日のJR日暮里駅

yanaka060322_2_72  21日-彼岸の中日のJR日暮里駅。墓参りに訪れた乗降客に向けて、駅舎内のフラワーショップによって供花が販売されていますが、この日ばかりは店頭のみならず改札内のホームにも用意されていました。また、駅職員が、改札の外にも立って、谷中方面への歩行者の交通整理をしていました。

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【やなか百景】ドッキング-新交通・日暮里舎人線の敷設工事と再開発③

yanaka060322_4_72yanaka060322_3_72  21日-日暮里駅東口の広場に出現した日暮里舎人線の敷設工事が続いていますが、18日は、カーブの部分が開いていました=写真左が、22日には見事にドッキングして、つながっていました=写真右

 この日暮里舎人線は、道路の上空を利用して、専用の路線を走る交通システムで、輸送力はバスと鉄道の間といわれています。

 路線は、荒川区西日暮里の日暮里駅と足立区舎人の見沼代親水公園駅(仮称)の間約10キロを13の駅を経由して結びます。駅は、日暮里駅、西日暮里駅、赤土小学校駅、熊野前駅、足立小台駅、扇大橋北駅、高野駅、江北駅、上沼田東公園駅、谷在家駅、舎人公園駅、舎人駅、見沼代親水公園駅。完成は、2007年度の予定です。

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March 08, 2006

【やなか百景】日暮里駅荒川区側の広場-新交通日暮里・舎人線敷設工事と再開発②

yanaka060307_72yanaka060307_2_72  7日-日暮里駅の東口広場で行われている日暮里・舎人線敷設工事が佳境に入っています。

 日暮里駅と足立区舎人地区とを結ぶ新交通システムで、道路の上部を使って専用軌道を走ります。開通により、現在はラッシュ時だと約1時間のところを、約20分で移動することができるようになるということです。

 西日暮里方面から日暮里駅東口広場に右折する路線の建設は、カーブの部分を残して、先に直線部が姿を現してきています=写真。開通は来年度の予定です。

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March 04, 2006

【やなか百景】東京藝術大学上野校内美術散策①-二重橋の飾灯と橋欄

yanaka060304_72  4日-写真左の飾灯と橋欄は、皇居二重橋の飾灯と橋欄です。1886年(明治19年)に、当時の宮内省がドイツ・ハーコート会社に注文し、2年後の1888年に竣工したものです。東京芸術大学の吉村順三教授が設計した新宮殿造営に伴い、二重橋を架け替えたため、旧飾灯の4基のうちの1基と、橋欄の4枚を、宮内庁から移管されて、この場所に置いたものです。 yanaka060304_2_72

 飾灯の高さは5.1メートル、橋欄は、幅2メートル。

 現在の二重橋、飾灯、橋欄=写真右は、1962年(昭和37年)に内藤春治名誉教授が意匠設計と原型設計をしたものだそうです。

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February 16, 2006

【やなか百景】ショーウィンドウに白梅-文京区根津2丁目

yanaka060216_72 yanaka060216_2_72  16日-根津2丁目のショーウィンドウに、鉢植えの白梅。鈴なりにつけた花は、満開でした。

 かつてはお寿司屋さんだったところのようで、看板に「寿司」の文字。ショーウィンドウでは、蛍光灯の灯りに白い花が浮かび、思わず立ち止まって眺めました。

 丹精込めて育てた白梅の晴れ姿で、道行く人が楽しい気持ちになるようにという心づかいが感じられます。

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February 06, 2006

【やなか百景】阿弥陀堂-両大師堂

yanaka060206_72  6日-東叡山輪王寺・両大師堂(上野公園14-5)にある阿弥陀堂です。右手前が虚空蔵菩薩像、左が地蔵大菩薩、中央奥が阿弥陀如来坐像です。

 3日の節分会の際に、御堂がご開帳されていました。老婦人が、「寅年生まれなので、虚空蔵菩薩からご利益をいただこうと思って」と手を合わせて拝んでいました。

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February 02, 2006

【やなか百景】千人塚-谷中霊園(天王寺)

yanaka060202_72  2日-谷中霊園・天王寺の墓所にある千人塚は東京大学医学部に献体された人たちを慰霊しようと建てられました。

 中央が、明治3年から13年9月までに、向かって左が明治13年9月から21年9月まで、向かって右が明治21年9月から37年8月までに献体された人たちのお墓です。yanaka060202_2_72

 それぞれ、千体余の献体を慰霊するために、明治14年6月、明治25年6月、大正2年6月に建てられました。 「千人塚」の文字ですが、「人」の字の右の撥ねに、三つのはらいがあり、塚は偏の「土」の字がありません=写真右

 医学教育と医学の進歩・発展のために捧げられた御霊に感謝し、慰めるために、東京大学医学部は毎年、解剖体慰霊祭を行い、遺族や医学部関係職員、初めて解剖実習に臨んだ医学科の学生が参列しています。

 解剖体慰霊祭では、本堂で読経、焼香などが行われたのち、千人塚でも読経が行われ、隣接するドームに尖がりがついた形の納骨堂で焼香が行われているようです。

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February 01, 2006

【やなか百景】寛永寺旧本坊表門-上野公園

yanaka0131_2_72   1日-寛永寺旧本坊表門は、上野公園の東京国立博物館に隣接する両大師の敷地内にあります。

 現在の上野公園の噴水地周辺に、江戸時代には、本尊の薬師如来を奉安する根本中堂がありました。そして、その後方にあたる現・東京国立博物館の敷地辺りに本坊があり、輪王寺宮法親王がおられました。

 しかし、1868年5月の上野戦争で焼失し、この本坊表門のみが残りました。yanaka0131_72

 東京国立博物館が1903年(明治36年)に帝国博物館が開館すると、正門として使われましたが、関東大震災後、現在の本館改築に伴って、現在の場所に移されました。

 門のつくりは、切妻造り本瓦葺き、くぐり門のついた薬医門です。薬医門とは、屋根の天辺が門の中心線上から前方にずれているように見える門。

 門扉には、上野戦争時の弾痕が残されています。

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January 31, 2006

【やなか百景】両大師-上野公園

yanaka0131_3_72  31日-上野公園にある両大師。1644年(正保元年)、寛永寺を開いた天海僧正の像を安置する堂として建てられました。

 1643年(寛永20年)に108歳で亡くなった天海僧正に1648年(慶安元年)、朝廷から没後に贈られる号・し号として「慈眼(じげん)大師」を受けたため、「開山堂」または「慈眼堂」といわれました。

 その後、天海僧正がもっとも尊敬した平安時代の高僧・慈恵(じえ)大師良源の像も安置したため、「両大師」と呼ばれるようになりました。

 安置されている像は、天海僧正の像は、寂後まもなく作られた木造の坐像で、東京都指定有形文化財です。良源を描いた「元三大師画像」は、室町時代初期につくられ、江戸庶民の信仰を受けてきたもので、台東区指定有形文化財となっています。

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January 29, 2006

【やなか百景】ダイヤモンド富士を見ました-西日暮里3丁目の富士見坂

yanaka0129_72_2  29日-雲一つない西空。西日暮里3丁目の富士見坂に集まった人たち約50人が、富士山頂に沈むダイヤモンド富士を眺めました。

 西に沈みつつある太陽は午後4時40分を過ぎた頃から、輝きをやや弱めたかのように日輪をくっきりとさせ、沈む速度を速めました。ビルの奥に沈むかのように見えたそのとき、富士山の山稜が浮かび上がりました=写真右・午後4時52分頃。そして、息つく間もなく太陽は、山頂やや右よりに沈んでゆき、最後の光までもが沈んだとき、誰ともなくついたため息が漏れ聞こえました。そして西空には、富士山のシルエットがくっきりと現れ、立ち去りがたい人たちが余韻を楽しんでいました。

 天候に恵まれれば、31日までダイヤモンド富士(富士山の頂に太陽が沈む現象)を望むことができます。この観測に訪れる人の安全を考えて、この富士見坂は、29日~31日の午後4時30分~5時10分まで、車両の通行止めをしています。地元町会の西日暮里3丁目町会と日暮里富士見坂を守る会協力で行われています。

 日暮里富士見坂を守る会のパンフレットによりますと、日暮里富士見坂は、都心で「富士見坂」と名の付いている坂で現在、富士山を眺望できる唯一の坂。この風景遺産を後世に残すための法制度はなく、眺望視線上にある主要道路沿いに高層ビルが建てば、ますます見えにくくなる可能性があると訴えています。そこで同会は、富士見坂からの眺望は風景遺産であることを多くの人に知ってほしいと活動しているのだそうです。

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January 22, 2006

【やなか百景】旧平櫛田中邸で東京芸大木彫研究室が作品展

yanaka060122_2_72 yanaka060122_3_72 22日―アトリエの末裔あるいは未来展が、上野桜木2丁目にある旧平櫛田中邸で、1月22日までの1月週末に催されました。

 東京藝術大学美術学部彫刻科木彫研究室が主催。深井隆教授=写真右の右側はじめ教職員と修士課程以上の学生18人が出品しました。

 22日は、出品者による作品解説が行われ、50人ほどの人が集まりました。

 修士課程2年の平原なつこさんは、ヘブライ語で風を意味する「ruah」(ルアハ)と題する作品=写真左・手前をアトリエのある棟の2階書生部屋に展示。解説によると、「吹きつける風によって、つらい、汚いものが背中から抜けていく気がした。風がある姿と神の姿が似ていると思い創っていった。400本ほどの葉を(黒の台に)埋め込み、真っ暗な中を光の風が抜けていくイメージで着色した」ということです。また、「Mt.」(マウント)と題する作品=写真左・奥は、非常勤助手のたなかけいすけさんによる作品で、「山を神に見立てた信仰、願いを表現した。鳥居をくぐった先に見える遠くの風景の山といった視点が遠くにいくのを立てに創っている。10センチ角の角材は、柱が支える物から、彫ることで精神的なものを支える心の柱になった」と説明しました。

yanaka060122_4_72  平櫛田中は、明治・大正・昭和にかけて活躍した木彫家で、77歳の時に東京藝術大学の教授になっています。旧平櫛田中邸=写真左は、大作「転生」の制作に広いところが必要だろうと画家の横山大観、下村観山、木村武山などが支援して1919年(大正8年)に建てられ、3年後には隣に住居が建てられたところで、田中が98歳になった1970年(昭和45年)まで、住んでいました。現在は平櫛田中の生誕の地、岡山県井原市が所有しています。

 2001年から井原市の協力のもとで、地元有志や東京藝術大学、NPOたいとう歴史都市研究会などによって、旧平櫛田中邸の掃除や修繕、見学会、現代美術展などが行われています。

 今回作品展を催した東京藝術大学美術学部彫刻科木彫研究室の深井隆教授は、ギャラリートークに集まった参加者に、「斬新な試み。関係者の協力が得られれば継続して開いていきたい」とあいさつしました。

 

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【やなか百景】谷中霊園も雪景色

yanaka060121_72  21日―気象庁の発表によりますと、千代田区で積雪の深さ6センチを記録し、24時間で10センチの降雪量がありました。

 写真は、21日午前8時の谷中霊園です。谷中霊園といっても、都立霊園と、寛永寺の墓所、天王子の墓所が入り組んでいます。

 ドームのような形に角が立っているような建てものは、東京大学医学部の納骨堂で、天王寺の墓所にあります。医学教育と医学の進歩発展に捧げられた方々の御霊に感謝し、供養するための解剖体慰霊祭が、遺族や医学部関係教職員、医学部学生が参列して、天王寺で毎年行われています。 

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December 29, 2005

【やなか百景】夜回り―谷中7丁目

yanaka1230_2  29日―提灯を手にもつ人、拍子木を打ち鳴らす人。JR日暮里駅北口を出たところの御殿坂で、防犯、防災を呼びかけて夜回りをする天王寺町会の人たちに出会いました=写真

 冬場になると、我が家のある路地を通り抜けていく拍子木の音が聞こえるようになります。

 これは、谷中にコミュニティが、今なお残っているということだと思います。

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December 26, 2005

【やなか百景】徳川家綱霊廟勅額門―寛永寺霊園

yanaka1226  26日―寛永寺霊園(上野桜木1丁目16)にある徳川家綱霊廟勅額門です。重要文化財です。

 4代将軍家綱公は、1651年4月、父の家光の死で、わずか10歳で将軍の座につき、1680年5月、39歳でなくなりました。法名は、厳有院(げんゆういん)です。

 病気がちだった家綱公を補佐し、政務にあたった大老・酒井忠清はよく知られています。

 家綱の霊廟の一部は、明治維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失しましたが、勅額門と水盤舎は現存しています。勅額門は、綱吉公の勅額門同様に4脚門、切妻造り、前後軒唐破風(ぜんごのきからはふ)付き、銅瓦葺きです。

 水盤舎は1680年に造立されたものですが、勅額門は1975年(昭和32年)の改修時に発見された墨書銘により、もとは家光の上野霊廟の勅額門であったものを転用されたものと考えられています。

※たいとう名所図会―史跡説明板ガイドブックを参照。

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December 25, 2005

【やなか百景】徳川綱吉霊廟勅額門―寛永寺霊園

yanaka1225   25日―寛永寺霊園(上野桜木1丁目16番)にある徳川綱吉霊廟勅額門です。重要文化財です。

 5代将軍・徳川綱吉公の霊廟を参拝に訪れた将軍が通るための門でした。

 綱吉公は、1680年(延宝8年)に兄・家綱の死によって将軍の座につき、1709年(宝永6年)1月10日に63歳で亡くなりました。法名は常憲院(じょうけんいん)。綱吉公ははじめ、善政を行い「天和(てんな)の治」と讃えられましたが、今日では「生類憐れみの令」などを施行した将軍として知られています。

yanaka1225_2  綱吉公は、寛永寺の根本中堂を1689年、現在の上野公園の噴水広場の噴水あたりに建立させました。造営の奉行は柳沢吉保、資材の調達は紀之国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門。根本中堂の建立にともない、先聖殿(現・湯島聖堂)が上野から湯島に移されています。

 綱吉の霊廟は1709年(宝永6年)11月に竣工しました。その一部は維新後に解体されたり、第2次世界大戦で焼失したりしましたが、勅額門と水盤舎が、廟とともに残っています。

 霊廟とよくいいますが、霊というのは本殿のことを、廟というのはお墓のことをいうのだそうです。徳川将軍の墓所は、本殿を右側から回って奥に入ったところに廟があるスタイルになっているのだそうです。

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December 23, 2005

【やなか百景】閻魔王坐像―谷中6丁目の長久院

yanaka1223_2  23日―冠の正面に「王」の文字。瞳を見開き、恫喝しているような大きく開いた口。右に司命(しめい・判決文を読み上げる従者)と、左に司録(しろく・ペンと板を持ち記録する従者)の書記官を従えている閻魔王の石造が谷中6丁目の長久院にあります。

 66部造立石造閻魔王坐像(ろくじゅうろくぶぞうりゅうせきぞうえんまおうざぞう)及び両脇侍像と呼ばれ、1997年に台東区の有形文化財に搭載されています。

 台座の銘文によると、66部聖の光誉円心という人が1726年(享保11年)につくったものです。「法華経」を66部写経し、全国66カ所の霊場に、一部ずつ奉納した聖を66部聖といい、生前のしょく罪や健康や幸福、死後の往生を願ったもので、江戸時代になると、写経のほかに、石塔や石仏が造立されるようになりました。

 都内に残る66部聖がつくった石仏は、地像菩薩像が圧倒的に多く、閻魔王の像は稀で希少な文化財の一つです。

※台東区教育委員会による説明板参照

 

 

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December 22, 2005

【やなか百景】「スーパイ夏みかん、手を触れないで」-ホッとするふれあいを散見

yanaka1222_2yanaka1222_3   22日-谷中の散策の楽しさの一つに、地域の人との交流があります。それは、買い物をしたりとか、世間話をしたりとかいうことはもちろん楽しいことでしょうが、住んでいる人から見知らぬ通りがかりの人へのメッセージが散見されるといったことです。

 写真左は、「スーパイ 夏ミカンです 手を触れないで 下さい」とピンクの紙に印刷された文字。紙をビニール袋に入れて夏みかんの木に吊るしてありました。見ると大きな実が生っています。車の交通量の多い通りに面した家で、鉢で育った果実。「心ない人もいるのだろうなぁ」と思う一方で、この家の方が大切に育てている樹木であることが伝わってきます。

yanaka1222  続いて、写真下のようなメッセージも見つけました。花のつり籠にぶら下げられたビニール袋。中には手袋とブルーの紙に「落し物」の文字。落としものらしきものが、ガードレールのポールや植栽の上に置かれているのを見かけることはあります。しかし、雨に降られてもよいように、さらに、目立つようにと配慮されたメッセージ。住んでいる人たちの心配りに触れたような気持ちになります。散策が楽しくなる瞬間です。

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December 02, 2005

【やなか百景】日暮里駅荒川区側の広場-新交通日暮里・舎人線敷設工事と再開発

yanaka1202  2日-日暮里駅の荒川区側広場です。駅前は再開発の工事と、新交通日暮里舎人線の敷設工事が進められています。

 この日暮里舎人線は、日暮里(荒川区)と舎人(とねり)地区(足立区)の9.7キロを約20分で結ぶ交通システムで、開通は2007年度を予定

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November 17, 2005

【やなか百景】旧吉田屋本店-台東区立下町風俗資料館付設展示場

yanaka1117_2yanaka1117  17日-江戸の商家の建築様式を伝え、明治時代の谷中の旧茶屋町付近を彷彿とさせるのが、旧吉田屋本店です=写真左。現在は、台東区立下町風俗資料館付設展示場として、公開されています。

 1986年(昭和61年)まで商売が営まれ、住居として生活が行われていましたが、改築を機に、台東区によって上野桜木2-10-6に移築されました。台東区指定有形民俗文化財です。

yanaka1117_4  資料によりますと、明治時代の建物で、前に土間があり、庇を長くしようと腕木の端にさらに腕木を乗せて屋根を支える出桁(だしげた)造り。店の出入りは揚げ戸による開閉式。柱の内側に溝をつけて、その間に挟んだ板戸を上下して開閉し、中柱も取りはずせるようになっていました=写真下。客の出入りや商品の販売、運搬を便利にするためのしくみだそうです。

 館内=写真右上に置かれているものは、区内外の人から寄贈されたもの。

■台東区立下町風俗資料館付設展示場
開館時間=午前9時30分~午後4時30分
休館日=毎週月曜日(但し、月曜日が祝日の場合はその翌日)、年末年始
入場無料
電話03-3823-4408

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November 16, 2005

【やなか百景】徳川慶喜公の墓所-谷中霊園

yanaka1116yanaka1116_2  16日-谷中霊園にある江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜公の墓所です=写真左。谷中霊園の中にあります。

 谷中霊園は、都営の霊園と天王寺の墓所、寛永寺の墓所が隣接しているため、その一体を総称して呼んでいます。それでいうと、徳川慶喜公の墓は谷中霊園内の寛永寺の墓所にあります。

 東京都指定の史跡で、説明板には次のように書かれています。

「徳川慶喜(1837~1913)は、水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の第7子で、初め一橋徳川家を継ぎ、後見職として将軍家茂(いえもち)を補佐した。1866年(慶応2年)第15代将軍職を継いだが、翌年、大政を奉還、1868年(慶応4年)正月に鳥羽伏見の戦を起こして敗れ、江戸城を明け渡した。駿府に隠棲し、1913年(大正2年)11月22日に没した。5,600平方メートル余の墓域の中央からやや西南寄りに葺石円墳状の墳墓がある」

 慶喜の墓の隣には、美賀子夫人の墓が、後方には、側室の新村信、中根幸両名の墓があります。

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November 15, 2005

【やなか百景】本堂の改修工事へ。地域の人に見学会-大行寺

yanaka1114_4yanaka1114_2   14日-大行寺(谷中6-1-13)で、本堂の改修に先がけ14日、地域の人yanaka1114 や建築の研究者への見学会が開かれました。すでに9日、解体式と遷座式が行われ、ご本尊などは本堂隣のご会所に移されました=写真下

 大行寺は、江戸時代以前から谷中ある3カ寺(大行寺、現・天王寺、玉林寺)の一つで、1588年(天正16年)、圓妙院日感上人によって創建された日蓮宗の寺院です。

yanaka1114_3  棟札=写真右から、今から161年前の1844年(天保15年)4月に建てられたのち、1936年(昭和11年)に屋根が改修されたことがわかったそうです。

 老朽化による雨漏りなどがあったことから、今回、2年ほどかけて本堂が改築されるそうです。工事を進めるためのスペース確保で課題となった山門や樹木も、回転移動させたり、移植するなどして歴史あるものを残す努力と工夫がなされるそうです。

 見学会では、はしごをかけて屋根裏の棟木や構造も見せてもらいました。大きな屋根を支える棟木と柱の交差は複雑で、地震にも耐えうるという技術力は匠の技としかいいようがないと思いました。

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November 12, 2005

【やなか百景】落葉-谷中霊園さくら大通り

yanaka1112yanaka1112_2  12日-谷中霊園のさくら大通りでは落葉が始まっています。温暖のためか鮮やかな紅葉とはいいがたいのですが、葉は黄色や赤に染まり、落葉しています。

 イチョウの葉はまだ、紅葉していません。

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November 05, 2005

【やなか百景】道灌山からの眺望-いま・むかし

yanaka1105_3yanaka1105_4  5日-道灌山は、上野から飛鳥山へ続く台地の上にあり、1856年(安政3年)の「根岸谷中日暮里豊島辺図」によると、今の西日暮里4丁目付近で、荒川区立西日暮里公園や諏方神社辺りのようです。この辺りの寺町は、「ひぐらしの里」と呼ばれていました。

yanaka1105_2  道灌山の地名の由来は、中世に新堀(日暮里)の土豪・関道閑(せき・どうかん)が屋敷を構えたとか、江戸城を築いた太田道灌が出城を造ったなどといわれています。

 ひぐらしの里は、江戸時代、人々が日の暮れるのも忘れて四季折々の景色を楽しんだところから、「新堀」に「日暮里」の文字を当てたといわれています。

 また、この地は、貝塚や住居址、土器などが出土している荒川区内でも最も古い歴史をもつところで、縄文時代から数千年に渡って人々の営みが続けられているところです。

  写真上=諏方神社境内から見た現在の風景。台地の下に見えるのは西日暮里駅です。写真下=安藤広重画の「江戸百景」から「道灌山」。江戸時代は、筑波や日光の連山などを望むことができたそうです。道灌山は当時、薬草が抱負で、年中、薬草を摘みにくるが訪れていました。また、虫聴きの名所としても知られていました。

※荒川区教育委員会による説明板を参照。

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November 04, 2005

【やなか百景】おまいり小路-谷中6丁目

yanaka1104_2yanaka1104_3   4日-谷中6丁目のある路地です。木造2階屋の脇の路地を進むと、地蔵さまが祀られています=写真左上。祠の軒下に「世継ぎ地蔵尊」と額がかけられています。地蔵尊の脇にはかつて祀られていたと思われる地蔵尊の頭部が置かれています。清掃が行き届いていて、ろうそくと水、花が手向けられていることからも、地域の人たちに親しまれていることが感じられます。

 そして、お地蔵さまの足下に、「おまいり小路 あととりぢぞう」と書かれたプレートがありました。

yanaka1104 さらに、路地を入っていくと、こんどはお稲荷さまの祠が祀られています=写真右下。 江戸時代は多彩な民間信仰が生まれ、ことさら江戸後期は、社会や人々の生活が安定してきたことから谷中七福神や御府内88カ所霊場、弘法大師21カ所参り、さらに、修験者など民間宗教者の活動も活発だったということですから、このお稲荷さまの祠は稲荷講の名残かもしれないですね。

 お地蔵さま、お稲荷さまが路地に祀られ、今に引き継がれている風景が、谷中にあります。

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November 02, 2005

【やなか百景】旧東京音楽学校奏楽堂

yanaka1102_2  2日-旧東京音楽学校奏楽堂は現在、上野公園内にあり、台東区が管理しています。

 1890年(明治23年)に東京音楽学校(現・東京藝術大学)の本館として建てられた日本初の本格的な音楽ホールです。設計は山口半六、久留正道。1987年、上野公園内で復元されました。

 ホールの中央天井が、かまぼこのような形で高くなっていて、見た目や排気、音響上の配慮がなされているほか、壁面や床下に藁や大鋸屑が詰められて、遮音効果をあげるなどの技術的な工夫がなされているのだそうです。

yanaka1102 東京藝術大学建築科100周年の記念事業として、シュトゥットガルト室内管弦楽団トリオによるコンサートが2日、催されました。

 コンサートに先立ち、前野まさる・東京藝術大学名誉教授が、奏楽堂が上野公園という芸大隣接地に保存活用されることになった経緯を説明しました。

 説明によりますと、建て替えのために、一度は旧奏楽堂が明治村に移設保存されることになったものの、「建築や都市は、人と土地との営みの証なので、土地の歴史を築いている建物が消えたら、その歴史も消えてしまう。土地の歴史が語れることが、土地の誇りを惹き出し、まちづくりの力となる」と、現地保存を訴える運動が起こったのだそうです。「奏楽堂を救う会」の森正さんが語った「奏楽堂は楽器である」という言葉が紹介されました。

 また、奏楽堂のホールにあるパイプオルガンは、1928年(昭和3年)に徳川頼貞侯爵から寄贈されたもので、1955年頃からは使われていなかったのを、2000人の有志による「奏楽堂のパイプオルガンをよみがえらせる会」の結成、募金活動が実り、オルガンが修復されたということです。

 これは日本唯一の空気式オルガンで、1850年代の特殊な機構を持っている歴史的なオルガンです。音質もロマンティックスタイルといって、柔らかい音色なのだそうです。

 谷中を歩いていて楽しいのは、歴史の名残があちこちに散見されるから。そして、今も役に立ったり、使われている建物や場所だからこそ、歴史を肌で感じることができるのですね。

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October 28, 2005

【やなか百景】さりげなく歓迎する人-谷中1丁目

yanaka1022_2  28日-谷中1丁目の玉林寺近く。黒壁に高い木塀。角に柳が印象的な家です。その木塀の上部に、まるで酒宴でもしながら、通る人を並んで見送る人の形の作品があります。

 谷中を歩いていると、さりげなく通る人の視線を意識し、さりげなく歓迎しているような地域の人たちの思いを感じます。コミュニケーションっていろんな形があるんですね。

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October 23, 2005

【やなか百景】絶妙のサイズの駐車場―谷中7丁目

yanaka1023  23日-朝倉彫塑館の入り口がある通称・初音の道を歩くと、出会えるショットです。知人が「かわいい」と感嘆しているのを聞いて、改めて面白さに気づきました。

 車のフロントが、まるで「こんにちは」と覗いているように見えます。それにしても、毎日のこととはいえ、このスペースから車を出し入れするのですから、絶妙の運転テクニックですよね。

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October 14, 2005

【やなか百景】江戸六地蔵六番-浄名院

yanaka1014  14日-浄名院(台東区上野桜木2-6-4)の江戸六地蔵第六番です。縁起によりますと、永代寺(富岡八幡宮の別当寺)の地蔵が本来は江戸六地蔵六番であったけれども、明治初年の神仏分離(明治政府の宗教政策)の際に、永代寺が廃寺となり、地蔵尊も破壊され、その後、浄名院に江戸六地蔵六番として再造されたのだそうです。

 江戸六地蔵は、1番・品川寺(南品川)、2番・東禅寺(山谷明神)、3番・真性寺(巣鴨)、4番・大宗寺(新宿)、5番・霊厳寺(深川寺町)、6番・浄名院(上野桜木)。

 ※浄名院の縁起はこちら

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October 07, 2005

【やなか百景】「谷中の仏像」展-谷中コミュニティセンターで

yanaka1007  7日-平成17年度谷中コミュニティ美術展「谷中の仏像」が15日まで、谷中コミュニティセンター1階ロビー(台東区谷中5-6-5)で催されています。入場無料。

 谷中コミュニティ委員会が主催するもの。これは、8日・9日に行われる谷中まつりのイベントの一つで、台東区などが「台東区のたからもの-寺社所蔵の文化財にみる歴史・文化-」展を催していることに合わせて企画されました。

 谷中の寺院や町なかの仏像の写真約70点が展示されています。仏像の写真を撮影し、さらに神仏像の図解説をまとめて展示した加藤勝丕(かつひろ)さんは「江戸幕府による仏教の保護政策や明治政府による神仏分離、さらに、その後から現在までの庶民の信仰や願いを知る手がかりとして、寺院に安置されている本尊と併祈仏、町なかの伝説の仏像、墓地にみる石仏など、谷中の仏像図鑑をつくることが目標です。今回は、諸宗の仏像図その1としてまとめました」と話しました。

yanaka1007_2  また、特別展示として、大森貝塚を発見したエドワード・S・モースが、助手の松浦佐用彦の死を悼んで石碑に刻んだ哀悼の辞の拓本が展示されています=写真下。これは、苅田銅山さんが濡拓したもので、モースの碑文は日本で唯一といわれ、谷中霊園にあります。

   その碑文には「忠実な学生、そして真摯な友人。科学的な探求心とともに、倫理を信じて自然を愛し続けた人。権威ではなく、観察と経験によってのみ真の言葉に到達できると確信していたひと。それが松浦君だった」(西河哲也さん訳)と書かれています。

 谷中コミュニティセンターの岩崎正明所長は「1年間という年月をかけて谷中の地で加藤さんが撮り続けた様々な仏像の写真は見る人に何を語りかけるでしょうか。見て何かを感じていただければ」と話しました。

写真上=展示会場。加藤勝丕さん(左)と岩崎正明・谷中コミュニティセンター所長(右)

■谷中コミュニティ美術展「谷中の仏像」

  • 会期:10月2日~15日午前9時~午後5時
  • 会場:谷中コミュニティセンター1階ロビー(台東区谷中5-6-5)※駐車場なし
  • 入場無料

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October 05, 2005

【やなか百景】水曜日の朝-谷中7丁目

yanaka1005  5日-水曜日、朝倉彫塑館の母屋側玄関前。燃えないゴミの収集日です。集積場所に出されたバケツが並んでいます。

 場所によっては、ゴミを入れたビニール袋が山のように積まれているところもありますが、このようにバケツが並んだ風景は、地域に根ざして生活をしている人の姿が感じられ、私の好きな景色の一つです。

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October 04, 2005

【やなか百景】8万4千体地蔵-浄名院

yanaka1004  4日-静寂に包まれた浄名院(台東区上野桜木2-6-4)の境内。まるで時の流れが止まったよう。所狭しと置かれた地蔵尊。風雨に崩れ、苔で緑がかった地蔵尊のお顔は、いつの時代も幸せを願う人々の思いがあることを、素直に受け止める気持ちになります。

 縁起によりますと、東叡山浄名院は1667年(寛文6年)、圭海大僧都によって、上野寛永寺36坊の一つとして開かれ、4代将軍家綱の母・宝樹院の菩提寺となり浄円院というようになりました。1734年(享保8年)、安楽律宗となり、妙立大和尚の孫弟子・玄門大和尚を第1世として浄名院と改称されました。

 玄門大和尚は、華美で繁栄めざましい江戸で、寺が隆盛する一方、ひとすじに清い信仰を広めようと安楽律宗を開いたのだそうです。

 やがて輪王寺宮の支持を得て、ご朱印2百石を賜った。

 1876年(明治9年)、38世妙運大和尚が、8万4千体の石地蔵建立を発願しました。これは、釈迦が入滅100年後にインドの阿育王が8万4千の石宝塔を世界各地に建立されたことにならったということです。

 石地蔵の奉納は、北白川宮能久親王をはじめ、徳川、小松、毛利など、元公家や財閥、梨園の花形など、さまざまな人が行っています。境内には、江戸六地蔵第六番の地蔵坐像のほか、院内にも六地蔵はじめ、へちま地蔵、安産育児地蔵、あらい地蔵など、さまざまな地蔵が置かれています。

 毎年、旧暦8月15日(15夜の日)に、たん、せき、ぜんそくに苦しむ人のための「へちま加持祈祷」が行われます。今年は9月18日に行われ、約1000人の参詣者が訪れたそうです。

 

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September 23, 2005

【やなか百景】アートリンク始まる-谷中、芸術の秋

yanaka0923_3  23日-谷中・根津・千駄木界隈をアートでつなぐイベント「アートリンク上野-谷中2005」が始まりました。

 23日(祝)から10月10日(祝)までの間、谷中、根津、千駄木にある美術館やギャラリーなど25カ所で、展覧会やワークショップ、パフォーマンスなどが行われます。

 このイベントを楽しむコツは、まず初めにガイドマップを手に入れて、どのように街を廻るか作戦を練ることだと思います。上野の森美術館(台東区上野公園1-2)、gallery J2(台東区上野桜木1-7-5)、クマイ商店(台東区上野桜木2-13-3)、ギャラリーkingyo(文京区千駄木2-49-10)などで入手できます。

 ガイドマップからイベントを紹介します。

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September 14, 2005

【やなか百景】北原白秋が住んだ谷中天王寺18

yanaka0914  14日-秋晴れの一日。この家は朝倉彫塑館の隣に建っています。北原白秋が小田原市から1926年(大正15年)5月に上京して、住んだ下谷区谷中天王寺18といわれているところです。シュロが玄関先に大きく育っています。

 北原白秋(1885-1942)は、大正期に童謡で一時代を築いた詩人。

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September 07, 2005

【やなか百景】諏方神社の山車人形番外ー鎮西八郎源為朝

yanaka0907 7日-今年の諏方神社(荒川区西日暮里3-4-8)の大祭は、御鎮座800年の節目の年でもあったことから、かつて谷中にあった山車人形2体が郷帰りをして、まつりを盛り上げました。

 郷帰りの2体のほかに、諏方神社が保管している山車人形「鎮西八郎源為朝(ちんぜいはちろうためとも)」も展示されました=写真。鎮西八郎源為朝は、源為義の8男で、源頼朝、義経の伯父で、武勇者で弓の名手だったそうです。

 諏方神社境内に、平塚春造さんがによる説明板があります(1989年10月付)。それによりますと、製作年は安政(1854~60)とありますが、作者は不詳。当時の諏方神社の山車は、江戸の中でも有名、かつ、格式高いものでした。それは、日清戦争の戦勝祝賀会が皇居前広場で行われ、東京中の山車が勢揃いした際に、登場する順位が3番目で、広場までの道中を鳶頭(とびかしら)たちの木遣りと芸者衆の手古舞(てこまい)、2頭の牛車がひいて参列したといわれているそうです。

 明治末頃は、本祭りのたびに牛と子どもたちに引かせていたのが、都市化で電線などによって、山車の運行ができなくなり、氏子有志による「祖崇会」が維持管理して人形だけを飾るようになりました。しかし、戦後、その組織が自然消滅し、人形は倉庫に保管されたままとなります。時を経て、人形の傷みが激しくなったことから、金子正男さんと工藤三郎さんが「このままでは朽ち惜しい」と復元したのだそうです。

 ※木遣り(きやり)=もとは、働く人の気と力を一つにするために歌った労働歌。鳶の歌として定着し、今では、おめでたい席で歌われることも多い。

 ※手古舞(てこまい)=江戸時代の祭礼の余興に出た舞。もとは氏子の娘が扮した。後に芸妓が、男髷に右肌ぬぎで、伊勢袴・手甲・脚絆・足袋・わらじをつけ、花笠を背にかけ、鉄棒(かなぼう)を左に突き、右に牡丹の花をかいた黒骨の扇を持って、あおぎながら木遣りを歌って神輿を先導するようになった(広辞苑調べ)。

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August 25, 2005

【やなか百景】よみせ通り-延命地蔵尊の縁日

yanaka0825_2 yanaka0825_3 25日-よみせ通り商店街が24日、延命地蔵尊の縁日を催しました。7月、8月、9月の3ヵ月は各月24日午後4時~7時に行われるそうです=写真右

 24日は、ゆかたを着ている人、もしくは商店街で1000円以上の買い物レシートで、人力車に乗れるというイベント=写真左のほか、ビールやレモンサワー、ポップコーン、やきそば、ヨーヨーつり、焼きもろこしなどの夜店が通りに並びました。細長い風船で動物などの形をつくるマジックバルーンの実演は子どもたちに特に好評で、風船をもらうために順番を待つ子どもの列ができました。

関連: 【やなか百景50】延命地蔵尊-よみせ通り

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August 24, 2005

【やなか百景】諏方神社大祭準備着々と

yanaka0824_6yanaka0824_5   24日-諏方神社大祭・御神幸祭が26日から28日まで行われます。3年に1度の大祭の今年は、28日に、神社の神輿はじめ獅子頭の乗ったお囃子、七福稚児船などが連なる一行が氏子25町会を一日かけて巡行します。

 町会によっては、神社神輿の巡行のほか、町会の子ども神輿や大人神輿の渡御、盆踊りなどを予定しているところもあります。

 すでに、各町会では、週末に迫った祭りの準備が着々と進められています。神社神輿の通行の妨げになる路上駐車をなくすよう協力を求める貼り紙をする真土町会の委員=写真左、御神酒所の設営を始めた初4町会=写真右など。また、各町会の掲示板には、それぞれの町会による行事日程が貼りだされています。この週末、日暮里・谷中地区では、あちこちで神輿のかけ声や太鼓の音などが、響き渡りそうです。

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August 23, 2005

【やなか百景】道灌どのの物見塚-本行寺

yanaka0823  23日-本行寺(荒川区西日暮里3-1-3)は、日蓮宗の寺で、「月見寺」とも呼ばれて江戸時代の文人や粋な人たちから親しまれて来ました。

 開基は、太田大和守資高で、寺ははじめ江戸城内の平河口に創建された後、神田、谷中を経て、1709年(宝永6年)に現在の地・西日暮里に移転したのだそうです。太田大和守資高は、室町時代の武将で歌人でもある太田道灌(1432~1486)の孫。太田道灌は扇谷上杉定正の家臣で1457年(長禄元年)に江戸城を築いたことで知られています。

 さて、本行寺の境内にある碑=写真上は、太田道灌が眺めのよいこの地に「物見塚」(見張り台)をつくったことを書いたもの。本行寺の住職・日忠や道灌の後裔という掛川藩主の太田氏などが、1750年(寛延3年)塚の脇に建てたものだそうです。

yanaka0823_2 塚は、鉄道が敷設されてなくなりましたが、この碑は残りました。

 道灌の言い伝えは古くからよく知られていて、小林一茶もこの地で、「陽炎(かげろう)や道灌の物見塚」と詠んでいます。

写真下の一茶の句を記した碑も本行寺の境内にあります。

 

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August 21, 2005

【やなか百景】蛍坂-谷中5丁目

yanaka0821 yanaka0821_2 21日-谷中5丁目にある蛍坂です。丘と坂の多い東京ですが、上野台地と根津谷の斜面沿いにつくられている細い坂道です。左が下り道の景色、右が上り道の景色です。

 江戸時代に坂下にある宗林寺付近は蛍沢と呼ばれ、蛍の名所として知られていたことから、坂の名前がついたのではないかといわれています。三年坂という別名もあるそうです。

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August 18, 2005

【やなか百景】2階屋よりも高かった谷中の山車

yanaka0817  18日-諏方神社の御神幸祭で、谷中の山車人形が社殿で展示されます。

 写真は、谷中町などが所有していた中国の武将・関羽の山車人形で、2階建ての家よりも高かったことがわかります。

 1954年(昭和29年)に早稲田大学演劇博物館に寄贈されたもので、今回、51年ぶりに里帰りをすることになります。

 明治末頃までは、まつりで町内を練り歩いたそうですが、都市化によって電線が張られるようになったことから、姿を消したのだそうです。

 

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August 05, 2005

【やなか百景81】平和願い谷中に被爆カキの木2世

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 5日-谷中には、1945年8月9日、長崎で原子爆弾を被爆したカキ(柿)の木の2世があります。

 この木は、谷中コミュニティセンター(谷中5-6-5)から蛍坂への階段脇に植えられています。

 説明板によりますと、この木は、被爆した後、樹木医によって蘇生に成功した木の2世です。1998年3月28日、谷中コミュニティ委員会が、「命の尊さと、平和を愛する心を谷中の子どもたちと一緒に考え、ともに行動し、優しさや人と人との絆を大切にすることを願い」植樹したそうです。

 昨秋、この委員会主催で、被爆柿の木2世からの柿とりや干し柿づくりの親子イベントが催されていました。

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July 30, 2005

【やなか百景80】日暮里駅に長蛇の列出現-「ピカチュウ」だから?

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30日-日暮里駅に長蛇の列が出現しました=写真。劇場などのチケット売り場があるわけでもなく、昨日までは見られなかったこと。午後12時30分のお昼時にもかかわらず、行列ができているのはどうしたことか?

 親子連れの列をたどって先頭にいってみると・・・・。

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 これは、JR東日本による夏休みファミリーイベント「ポケモン・スタンプラリー2005」の開始によるもので、30日は初日でした。

 このスタンプラリーは首都圏のJR97駅で合計100種類のスタンプが置かれていて、専用のスタンプ台紙の押印欄に7つスタンプを押すと、賞品がもらえるというものだそうです。日暮里駅は、スタンプのデザインが「ピカチュウ」ということもあり、人気があって行列も長いようです。

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July 25, 2005

【やなか百景79】千葉大生が谷中の公園テーマにまちづくりを提案

yanaka0725 25日-千葉大園芸学部緑地・環境学科の学生の有志が10日、アートスペース玄(谷中5-7-7)で、谷中の公園をテーマに研究発表を行いました。これは、実測調査・分析・周辺環境との関係性の読み取り・計画概念の構築・具体的な計画という一連の設計作業を学ぶ環境デザイン実習講座の中間報告会として開かれたものです。谷中の公園には、大きな公園にはない印象や魅力があり、それは都市生活に潤いをもたらす何かにつながるものではないかと、区立岡倉天心記念公園、区立初音児童遊園、谷中小学校前ポケットパークの3カ所を研究対象にしたということです。

 10日は、発表者たちは、実測調査から得られた情報をもとに、公園の特徴・よいところや改善点を分析し、今後どのようにデザインを提案していきたいかの抱負を語りました。

 区立岡倉天心記念公園を対象とした学生からは、「長寿者植樹や近隣町会によるお茶会など、コミュニティの豊かさを感じさせる」、「住民の生活が感じられる」、「観光地であり、児童公園という異なるものが集まっている」など、分析が発表されました。これらを、後期の具体的なデザインを地域に提案を結び付けていく予定で、「瞑想の空間にしたい」、「岡倉天心は世界に知られる人、谷中のシンボル公園になる。ハード面ではなくソフト面で美術館の役割をもたせたい」など、意欲的に抱負を述べる学生もいました。

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July 23, 2005

【やなか百景78】諏方神社-納涼おどりで二重・三重の輪

yanaka0723  23日-諏方神社の納涼祭りが23日、24日の二日間開かれます。初日の今日、夕涼みを兼ねてやってきた子ども連れの親子の姿や浴衣姿の若者のグループの姿が見られました。大木に囲まれた境内に足を踏み入れると、連なった提灯の明かりと、ざわめきに満ちた空気が押し寄せてきました。氏子の協力町会のテントでは、かき氷やフランクフルト、焼きそば、ビール・ジュース等も売られていました。櫓では、音楽にあわせて太鼓の拍子が響き、東京音頭や八木節など、踊りの輪が二重、三重と櫓を囲んでいました。明日24日も午後6時から9時まで開かれます。雨天中止です。

 まつりの夜の神社は、日常とは別世界のような雰囲気があるように思います。子どもの頃の楽しかったまつりの記憶と重ねてみているからでしょうか。

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July 18, 2005

【やなか百景77】諏方神社納涼祭り-7月23・24日

yanaka0718  18日-諏方神社(西日暮里3-4-8)の納涼踊り大会が23日、24日の2日間午後6時から9時まで催されます。雨天中止です。諏訪神社が主催し、氏子25町会が後援して開かれるもので、盆踊りのほか、出店も予定されています。

 諏訪神社は、日暮里・谷中の総鎮守で、日暮里の高台にあり、かつては東は筑波山、西は富士山を眺めることができた風光明媚なところにあります。縁起は、1205年(元久2年)、豊島左衛門尉経泰が神殿を造営し鎮守として祀ったと伝えられています。

 また、諏方神社の御神幸祭は、8月28日(日)です。今年は3年に一度の本祭であり、御鎮座800年の節目の祭りとなっています。

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July 07, 2005

【やなか百景76】虫図譜のモデルを慰霊した虫塚-寛永寺

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 7日-虫類を写生して図鑑「虫豸帖(ちゅうちじょう)」は、大名画人・増山雪斎(1754-1821)の作です。精緻さと正確さで知られているそうです。
 増山正賢(雪斎)は、1754年(宝暦4年)に伊勢長島(現・三重県)藩主・正贇の長子として江戸屋敷で生まれました。雪斎は号。玉園、蕉亭、石顛道人、巣丘隠人など多くの別号を持っています。江戸の文人・大田南畝(なんぼ、1749-1823)や大阪の豪商・木村兼葭堂(けんかどう、1736-1802)など、文人墨客と交流を持ち、パトロンとしても活躍しました。自らも清朝(中国)の画家・沈南蘋(しんなんびん、1682-1760)に代表される南蘋派の写実的な画法に秀で、多くの花鳥画を描いています。
 虫塚は、当初、増山家の菩提寺・寛永寺子院の勧善院内にありましたが、昭和初期に寛永寺に合併されたため、現在の場所に移されました。勧善寺は、4代将軍徳川家綱の生母で、増山氏の出である宝樹院の霊廟の別当寺(神社に設けられた寺、)として創建されています。
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 碑は自然石で、正面は儒学者・葛西因是(かさいいんぜ、1764-1823)の撰文を漢詩人・大窪詩仏(1767~1837)が書し、裏面は詩仏と菊池五山(きくちござん、1769- 1849)の自筆の詩が刻まれて、当時の有名な漢詩人たちが、増山雪斎の遺志を継いで、写生に使った虫類の霊を慰めるために建てたことがわかります。

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July 06, 2005

【やなか百景75】復元された江戸時代の陶芸家・尾形乾山の墓碑とほか-寛永寺

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 6日-寛永寺に、尾形乾山の墓碑と乾山の功績を讃え世に伝えようと作られた乾山深省蹟の復元されたものがあります。
 尾形乾山は、琳派の創始者、画家・尾形光琳(1658-1716)の弟。1663年(寛文3年)京都で生まれた。乾山のほか、深省・逃禅・習静堂・霊海・紫翠の別号がある。
 台東区教育委員会の説明板によると、画業のほか、書・茶をよくして、特に陶芸は有名で、1711~35年(正徳・享保年間)、輪王寺宮公寛法親王に従って江戸に下り、入谷に窯を開き、その作品は「入谷乾山」と呼ばれたのだそうです。乾山は、1743年(寛保3年)、81歳で没し、下谷坂本の善養寺に葬られました。
 そして、月日の経過につれ、乾山の墓の存在自体忘れされていたところ、光琳の画風を慕う画家の酒井抱一(1761-1828)が探し出し、1823年(文政6年)、讃え広め伝えるための碑「乾山深省蹟」を立てたのだそうです。
 明治末に上野駅拡張のために豊島区西巣鴨に移転した善養寺とは別に、墓碑と乾山深省蹟は、当時鶯谷にあった国華倶楽部の庭に移されました。その後1921年(大正10年)、公寛法親王との縁によって寛永寺境内に移転。さらにその後、西巣鴨の善養寺に移されました。今も善福寺にあり、東京都旧跡となっています。
 現在、寛永寺境内にあるこの2つの碑は、善養寺への移転で乾山の碑の足跡がなくなることを惜しむ人たちによって、1932年(昭和7年)復元され建立されました。
 なお、入谷乾山窯元碑が、入谷ロータリーの一隅にあるそうです。

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July 04, 2005

【やなか百景74】寛永寺本堂

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 4日-寛永寺の現本堂は、東京国立博物館や東京藝術大学そば(台東区上野桜木1-14-11)にありますが、旧本堂(根本中堂)は東京国立博物館前の噴水池あたりにありました。1868年(慶応4年)、彰義隊などの旧幕府軍と薩摩藩・長州藩を中心とした新政府軍の間で起きた上野戦争で焼失。そのため、1876年(明治9年)から12年をかけて、埼玉県川越市の喜多院の本地堂(ほんじどう)が移築され本堂とされました。1638年(寛永15年)の建造といわれているそうです。
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  台東区教育委員会の説明板をみますと、造りは、間口・奥行きともに7間(17.4メートル)。前面は、3間広さで社殿の正面階段の上に張り出したひさしの部分(向排・ごはい)と5段の木階があり、背面にも1間の向排があります。本堂の周囲に、端の反り曲がった欄干(勾欄)がついた縁側がぐるりを囲んでいます。正面中央などの桟唐戸(さんからど)、正面左右などの蔀戸(しとみど)、板壁など、彩色されておらず、屋根は入母屋造、本瓦葺、縦に2重垂木。
 内部は、仏像が安置される所・内陣が土間で、人々が拝礼する所・外陣と同じ高さの仏像を安置する壇(須弥壇)が設けられた天台宗独特の中堂造りですが、現在は仮りの床が張られ、内外陣とも畳敷きとなっているそうです。
※写真下=浮絵東叡山御中堂之景・北尾重政画(根本中堂前の説明板から) 

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June 26, 2005

【やなか百景73】仮名垣魯文の猫塔記念碑-永久寺

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 26日-永久寺(台東区谷中4-2-37)に、幕末から明治時代にかけて活躍した劇作家で、新聞記者・仮名垣魯文の墓と、魯文の猫塔記念碑があります=写真右
 これは、縦横40センチ四方の石をくり抜いて三方に丸窓をあけて、中には山猫の石像が納められ、上は蓮華の葉とつぼみの石がのっている塔です。
 仮名垣魯文は、1878年(明治11年)7月21日東両国の中村楼で「珍猫百覧会」を開き、書画や骨董など猫の収集物を展示したそうです。その会は、参観者2000人を超えるほど盛況で、その利益金でこの記念碑が建立されたといわれているそうです。
 また、山猫めをと塚=写真左は、1881年(明治14年)に建てられたもので、永久寺にはこのほか、山猫雌雄(めおと)の絵図があるそうです。

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June 20, 2005

【やなか百景72】まちの話題は「お猿出現」

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 20日-ここ谷中では、今、スーパーマーケットなど、まちで聞こえてくるのが「お猿出現」の話題です。これは、谷中霊園の事務所近くの桜の木につけられたポスターです。谷を挟んだ文京区の市民緑地「千駄木ふれあいの杜」・通称「屋敷森」でもサルを目撃したという情報があるほか、台東区のホームページには、20日午後4時40分ごろに、上野公園の東京都立美術館付近でサルを目撃したという情報が台東区に寄せられたことが報じられています。
 台東区は、サルに遭遇したときは、なるべく目を合わさず、やり過ごして、区危機管理室生活安全推進担当 (電話03-5246-1044 )まで連絡してほしいと呼びかけています。

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June 18, 2005

【やなか百景71】藍染川と枇杷橋(合染橋)跡

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 18日-文京と台東の区境の道路は、うねうねと蛇行しています。この道は現在暗渠となっている藍染川の流路です。
 文京区教育委員会の説明板には次のように書かれています。
 「新編武蔵風土記稿」によれば、水源は染井の内長池(現在の都営染井霊園の北側の低地)で、ここから西ヶ原村へ、さらに、駒込村から根津谷に入る。不忍池から上野の山の三枚橋下(公園入り口のところ)で忍川になり、三味線堀から隅田川に注ぐ。
 川の名は、上流から境川、谷戸(たにと)川(谷田・やた川)・藍染川などと呼ばれた。藍染の名の由来はいろいろある。染井から流れ出るから、川筋に染物屋があり川の色が藍色に染まっていたからなど。
 前方の道路の交わるところに、藍染川に架かる橋があった。江戸時代の「御府内備考」や「新編武蔵風土記稿」によれば、この橋は、合染橋、藍染端、琵琶の橋(のち枇杷橋)などと呼ばれた。また旧八重垣町にも同名の藍染橋があった。
 川は、水はけが悪くよく氾濫したので、1921年(大正10年)から暗渠工事が始められ、現在流路の多くは台東区との区境の道路となっている。

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June 16, 2005

【やなか百景70】日暮里駅東口への階段が仮設に、新交通・日暮里舎人線整備で

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 16日-日暮里駅東口広場への昇降は、新交通・日暮里-舎人線の整備に伴い今日から仮設階段を使うことになりました。日暮里・舎人線は、荒川区の日暮里から足立区の見沼代親水公園までの約9.8キロを20分ほどで結ぶ計画です。駅は13カ所設けられ、東京都が主要構造物を作り、東京都地下鉄建設株式会社が各種設備の整備と運行・経営し、開業は2007年を目指しているということです。新交通とは、ゆりかもめのように専用軌道で走り、バスと電車の中間の輸送力をもつ交通機関のことだそうです。駅前の再開発事業とともに、まちの開発が目に見えたものとなってきました。

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June 14, 2005

【やなか百景69】蛍で知られた萩寺-宗林寺

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 14日-1772年(明和9年)刊行の「再校江戸砂子」に「宗林寺前より七面へゆく坂」として七面坂が紹介されています。そこで宗林寺は坂下にあるかと思いきや、現在の七面坂を下った正面は本授寺(谷中3-11-16)、坂を下りて右にあるのは長明寺(谷中5-10-15)。宗林寺は、七面坂を下り、六阿弥陀道をしばらく三崎坂方面に歩いて右手にあります。
 台東区教育委員会の説明板によりますと、宗林寺は「再校江戸砂子」に、蛍の地とされ、その蛍はほかよりも大きく、光もよいと書かれているのだそうです。また、境内には萩が多かったので萩寺と呼ばれたそうで、今も山門から本堂への参道などに萩が植えられています。

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June 05, 2005

【やなか百景68】七面坂

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 5日-七面坂は、大きく右にカーブしながら下る坂道で、JR日暮里駅から谷中銀座への道です。この七面坂と平行して、階段のある道「夕やけだんだん」があります。
 台東区教育委員会の説明板によりますと、1772年(明和9年)刊行の「再校江戸砂子」に「宗林寺前より七面へゆく坂」とあるように、300年以上前からあった道で、宗林寺は、現在も坂下にある寺。また、1826年(文政9年)の「御府内備考」によれば、幅2間(約3.6メートル)・長さ50間(約90メートル)・高さ2丈(約6メートル)ほどだったということです。
 現在、この坂は行政境となっていて、坂を下る場合、右が荒川区西日暮里3丁目、左が台東区谷中5丁目となります。そのため、両区による坂の説明板が、道路を挟んで10メートルと離れず道路脇に立てられています。それらによると、坂名の由来は、坂上の北側にある日蓮宗延命院(荒川区西日暮里3-10)の七面堂を指しているということです。七面堂は、甲斐国(山梨県)の身延山久遠寺の西にある七面山から招いた日蓮宗の守護神・七面天女(七面大明神)を祀っているお堂で、延命院では通常、毎月19日にご開帳しているそうです。

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June 01, 2005

【やなか百景67】日暮里小学校の跡地-諏訪台ひろば館辺

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 1日-諏訪台ひろば館(荒川区西日暮里3-3-12)の辺りは、かつて寺小屋があり、日暮里小学校があったそうです。1880年(明治13年)5月に、谷中天王寺門前の瑞輪寺境内にあった寺小屋が、この諏訪台ひろば館の辺り(日暮里6番地)に分離移転しました。
 その後、公立小学校をつくってほしいと、日暮里村、谷中本村、谷中村の3村が、東京府知事に請願し、1885年(明治18年)に認可され、公立日暮里小学校が誕生しました。
 荒川区教育委員会によりますと、開校当時、児童は36人、教員2人の1学級で、校舎は焼く50平方メートルの茅葺一棟だったということです。
 1913年(大正2年)、校名を第一日暮里尋常高等小学校と改称。1936年(昭和11年)11月、日暮里9丁目1080番地のかつては青雲寺だった場所に新築移転。1947年(昭和22年)、荒川区立第一日暮里小学校に改称、今年2005年は創立120周年を迎えます。

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May 31, 2005

【やなか百景66】銅造・釈迦如来坐像-谷中の天王寺

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 31日-銅造・釈迦如来坐像が、天王寺(台東区谷中7-14-8)にあります。台東区有形文化財に指定されています。1908年(明治41年)刊「新撰東京名所図会」に、「唐銅丈六釈迦」とあり、東京の名所の一つとして「天王寺の大仏」は親しまれていたことがわかります。
 丈六仏とは、一丈六尺の高さにつくる仏像のことをいい、坐像の場合はその半分、八尺で造られたそうです。
 また、1690年(元禄3年)の頃の「武江(ぶこう)年表」に「5月、谷中感応寺丈六仏建立、願主未詳」とあり、像背面の銘文にも、制作年代は元禄3年、鋳工は神田鍋町に住む太田久右衛門と刻まれているそうです。
 この銘文の中に、「日遼(にちりょう)」の名があり、これは日蓮宗感応寺第15世住持のことで、感応寺が天台宗に改宗して天王寺と寺名を変える直前の、日蓮宗最後の住持の名だということです。
 丈六仏の基壇の背面にある銘文によれば、この坐像ははじめ、五重塔跡北方西側の道路付近の旧本堂右側に建てられていたが、1874年(明治7年)の公営谷中墓地開設のために、墓地西隅に置かれることになった。その後、1933年(昭和8年)6月、修理をした後、現在の場所に鉄筋コンクリート製の基壇を新築してその上に移されたということです。さらに1938年(昭和13年)、基壇に納骨堂を置き、現在に至っています。

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May 30, 2005

【やなか百景65】眺望絶佳の諏訪台

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 諏方神社(荒川区西日暮里3-4-8)の境内からの眺めです。高台となっていて、諏訪台と呼ばれています。諏訪台は、縄文・弥生時代から人々が生活をしていた場所で、江戸時代は四季折々の景色が楽しめる景勝地として賑わったそうです。荒川区教育委員会の説明板によりますと、浮世絵師・安藤広重(1797-1858)の「名所江戸百景」の中にも諏訪台お春景色が描かれているそうです。
※写真右=JR西日暮里駅が眼下に

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May 29, 2005

【やなか百景64】地蔵坂

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 29日-この坂は、諏方神社(荒川区西日暮里3-4-8)からJR西日暮里駅の西脇へ左に折れて下る坂です。
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 坂名の由来は、諏方神社の別当寺だった浄光寺に、江戸六地蔵の3番目として知られる地蔵尊=写真下が安置されていることにちなむといわれています。

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May 28, 2005

【やなか百景63】将軍腰掛石と福神漬け発明者の碑-浄光寺②

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 28日-眺望に優れた諏訪台という台地にあり、特に雪景色がすばらしいと「雪見寺」とも呼ばれた浄光寺は、江戸東部六地蔵の3番目として知られる地蔵尊のほか、境内に、「将軍腰掛石」と福神漬け発明者の表彰碑があります。
 荒川区教育委員会の説明文によると1737年(元文2年)に、8代将軍吉宗が鷹狩の際にお成りになり、1740年以降に御善所(鷹狩や旅の宿)となったということです。ただ、腰かけの石の脇には「三代将軍御腰掛石」となっており、説明と碑に時代のずれがあるようで、浄光寺の方に聞いても「時代についても、石になぜ穴があいているのかもよくわからない」ということでした。
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 もう一つ、福神漬け発明者を表彰する碑があります。表には「福神漬発明者 野田清右衛門、表彰碑、従三位勲一等 村田保書」とあり、裏は「明治四拾四年拾貮月建立、永代維持料金壹百圓添納」とあり、その下に設立者の名前が並んでいます。
 この野田清右衛門は、上野にある食料製造・販売店「酒悦」(台東区上野2-7-11)の15代(創業1675年)で、明治初め頃に、大根・ナス・カブ・なた豆・シソ・ウリ・レンコンの7種の野菜を細かく刻み、醤油と砂糖、ミリンなどで作った調味液につけた漬物を発明。店が不忍池の弁天に近いところから、谷中七福神に因み「福神漬け」と名付けられたのだそうです。この福神漬けのほか、野田清右衛門は、海苔の佃煮もつくったそうです。
 福神漬けというと、カレーライスに添えられるのが定番の漬物ですが、ハウス食品のホームページによりますと、大正時代に日本郵船が欧州航路客船で、一等船客にカレーライスを出す際に添えたのが最初で、それが日本中に広まったということです。
 

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May 26, 2005

【やなか百景62】江戸六地蔵と雪見寺-浄光寺①

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 26日-古くから風光明媚なところだった日暮里は、月見寺(本行寺)、花見寺(青雲寺・修性院)として知られている寺があります。加えて、眺望がすばらしく、特にここからの雪景色がすばらしいと雪見寺として知られている寺があります。それは、浄光寺(荒川区西日暮里3-4-3)で、真言宗豊山派の寺院です。法輪山法幢院と呼ばれ、江戸時代までは諏方神社の別当寺だったそうです。
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 江戸最初の東都六地蔵の3番目の地蔵菩薩(荒川区指定文化財)があります。銅でできた約3メートルの立像で、空無(くうむ)上人の教えによって、江戸東部6ヵ所に6つの地蔵が置かれたということです。かつては門の傍らの地蔵堂に安置されていたため、門前は「地蔵前」とも呼ばれるのだそうです。
 六地蔵は、墓地の入り口、村の入り口など境界に立てる六体の地蔵のことで、地獄道、飢餓道、畜生道、阿修羅道、人間道、天道の6つの道で苦難を救うとされています。
 

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May 23, 2005

【やなか百景61】24日に清正公大祭-谷中赤門寺・蓮花寺

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 23日-谷中赤門寺とも知られるという蓮華寺(谷中4-3-1)で24日、清正公大祭が行われます。
 蓮華寺の境内に建てられた説明板によりますと、下総中山日蓮宗大本山法華経寺の第19世寂静院日賢聖人が一人静かに念仏を唱えるための隠室として約370年前に造られたのが始まりで、第3世常在院日在聖人によって、1631年(寛永7年)2月、現在の場所に、創建されたということです。
 山号は、寂静山。寺号は蓮華寺といい、古くから赤門寺として、また、六三除(九星をもとにした病気平癒の祈祷術)・虫封じの寺としても知られているのだそうです。
 御堂には、清正公大神祇(せいしょうこうだいじんぎ)、毘沙門天王、鬼形鬼子母神の3神を安置しているそうです。清正公大神祇とは、戦国時代の武将・加藤清正の没後、清正を神仏の化身とする伝承が生まれ、清正公大神祇と信仰する清正公(せいしょうこう)信仰が盛んとなったのだそうです。
 蓮華寺の赤門は、明暦、元禄、上野戦争などの災害を免れたものだそうで、現在の本堂等は、江戸文政年(1818~1829)頃、大檀越勘定奉行・細田丹波守が寄進して建てられたとされます。
 また浮世絵の細田時富(鳥文斎栄之)(1756~1829) 、新内中興の祖・富士松魯中の菩提寺でもあるそうです。
 さて、清正公大祭の24日は、午前10時からと午後2時からの2回、ご祈祷が行われるということです。

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May 19, 2005

【やなか百景60】芋坂を下ると善性寺

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 19日-芋坂を下ると善性寺(荒川区東日暮里5-41-14)=写真に突き当たります。
 荒川区教育委員会による説明板によりますと、この善性寺は日蓮宗の寺で、1487年(長享元年)の開創といわれているそうです。1664年(寛文4年)に、6代将軍徳川家宣の生母・長昌院が葬られて以来、将軍家ゆかりの寺となりました。宝永年間(1704-1711)に、家宣の弟・松平清武がここに隠棲し、家宣のお成りがしばしばあったことから、門前の音無川にかけられた橋に将軍橋の名が付けられました。
 善性寺の向かい、芋坂下には1819年(文政2年)に開かれたという藤の木茶屋(今の羽二重団子)があります。
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 門前アプローチはよく見ると橋になっていて、左側に「将軍橋」=写真、右側に「明治三十九年十二月成」と書いてあります。

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May 17, 2005

【やなか百景59】芋坂-谷中と根岸をつなぐ坂③

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 17日-JR鶯谷駅から日暮里駅までの一駅の間に、線路の左右を結ぶ坂道が4つあります。鶯谷駅から数えると、寛永寺坂、御隠殿坂、芋坂、紅葉坂。
 今回は芋坂。 坂を登れば谷中墓地=写真上右、陸橋「芋坂跨線橋」=写真上左を渡ると羽二重団子の店の横から善性寺前へ通じています。
 1882年(明治15年)頃、日本鉄道会社の東北線(現・JR)が開通して、坂道は分断されました。日本画家の伊藤晴雨(1882~1961)は「根岸八景」で、「芋坂の晩鐘」として、天王寺の五重塔を望む芋坂の、のどかなたたずまいを描いているとのことです。
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 坂名の由来は未詳。伝承によりますと、この付近で自然薯(山芋)が取れたことに因んでいるということです。正岡子規や夏目漱石、田山花袋の作品に、この芋坂の名が書かれているそうです。
 芋坂も団子も月のゆかりかな 子規
※羽二重団子店の店脇に正岡子規の句碑があります=写真下

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May 16, 2005

【やなか百景58】御隠殿跡-台東区根岸2丁目

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 16日-御隠殿坂は、東叡山寛永寺住職輪王寺宮法親王が、寛永寺から別邸の御隠殿へ行くための坂道だと紹介しました。
 その御隠殿は、御隠殿坂と芋坂の間の一帯にあり、敷地は3500坪前後、入谷田圃が見晴らせ、老松の林に包まれた池をもつ優雅な庭園で、ここから眺める月は美しかったといわれているそうです=写真上
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 台東区の説明板によりますと、輪王寺宮一品法親王(りんのうじのみやいっぽんほうしんのう)は、天台宗の首長である天台座主(ざす)に就き、比叡山・日光山・東叡山の各山主でもあったことから「三山管領宮(さんざんかんりょうのみや)」とも呼ばれ、第3世から幕末の第15世まで、親王あるいは天皇の猶子(ゆうし)いわゆる養子を迎え継承されてきました。
 その輪王寺宮は、1年のうち9ヵ月は上野に住んでいました。その間は、寛永寺の本坊(現・東京国立博物館内)で公務に就き、御隠殿は休息の場として利用したそうです。
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 御隠殿が造られた年代は明らかではないようですが、幕府編纂の絵図「御府内沿革図書」に、1753年(宝暦3年)7月に「百姓地4反1畝」を買い上げて、「御隠殿前芝地」としたと書かれているので、1753年までには造られていたようだとあります。しかし、1868年(慶応4年)5月、彰義隊の戦いで御隠殿は焼失しました。
 台東区根岸2-19-10にある薬師寺=写真中の一画に御隠殿跡という石碑=写真下があります。
※写真はクリックすると拡大されます。写真上=御隠殿敷地のスケッチ画。左端の道(No.22)が御隠殿坂、右端の道(No.2)が芋坂と説明されています。

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May 15, 2005

【やなか百景57】御隠殿坂-谷中と根岸をつなぐ坂②

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 15日-JR鶯谷駅から日暮里駅までの一駅の間に、線路の左右を結ぶ坂道が4つあります。鶯谷駅から数えると、寛永寺坂、御隠殿坂、芋坂、紅葉坂。
 御隠殿は、東叡山寛永寺住職の輪王寺宮法親王の別邸。江戸時代、寛永寺から別邸へ行くために造られたそうです。1908年(明治41年)刊「新撰東京名所図会」に「御隠殿坂は谷中墓地に沿ひ鉄道線路を経て御隠殿跡に下る坂路をいふ。もと上野より御隠殿への通路なりしを以てなり。」と書かれており、この鉄道線路を経てとは、踏切を通ってという意味です。現在は陸橋となっています。
 

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May 13, 2005

【やなか百景56】下村観山の墓-安立寺

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 安立寺(台東区谷中5-3-17)=写真上に日本画家・下村観山(1873年4月10日-1930年5月10日)の墓=写真下があります。
 本名は、下村晴三郎。紀州徳川家お抱えの能楽師の子として和歌山に生まれました。8歳で東京に転居。藤島常興、狩野芳崖、橋本雅邦に師事しました。東京美術学校(現:東京藝術大学)に第1期生として入学。卒業後、同校助教授となりました。
1898年(明治31年)、東京美術学校校長だった岡倉天心の辞職を受けて辞職し、横山大観、菱田春草とともに日本画の革新を目指し、日本美術院の創立に参加しました。その後、日本美術院の正員のまま東京美術学校教授に復職しました。
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 文部省留学生としてヨーロッパに渡航し、1905年(明治38年)帰国当時、日本美術院が不振で、岡倉天心がその絵画部を茨城県の五浦に移したので、観山も横山大観らと転居しましたが、明治45年(1912年)には五浦を引き上げ、横浜に新居を構えました。
 代表作は、1907年(明治40年)第一回文展に出展した「木(こ)の間の秋」(東京国立近代美術館所蔵)「弱法師(よろぼし)」(東京国立博物館)など。

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May 10, 2005

【やなか百景55】巨樹シイ-延命院

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 10日-谷中は、寺院が集まった地域です。花に釣られて境内に足を踏み入れると、思いもしなかった史蹟や巨樹に驚かされることがあります。宝珠山延命院(荒川区西日暮里3-10-1)も広いとはいえない本堂へのアプローチを進むと、大シイが目に飛び込んできました。
 このシイは、昭和5年5月に東京都天然記念物に指定され、説明板によりますと、1836年(天保7年)に描かれた「江戸名所図会」巻5の「日暮里惣図」でも描かれていて、当時から人々に親しまれた老樹だということがわかるとしています。かつては、幹周り5.5メートル(平成9年調べ)でしたが、2002年(平成14年)5月に幹内部が腐って南側の大枝が崩落し、現在の樹形となったそうです。
 

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【やなか百景54】延命院のツツジが見頃

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 10日-JR日暮里駅から谷中銀座に向かう道沿いにある延命院(荒川区西日暮里3-10-1)。門へのアプローチの左右のツツジが見頃です。この延命院は日蓮宗の寺院で、号は宝珠山、開基は4代将軍徳川家綱の乳母・三沢局(みさわのつぼね)だそうです。家綱が生まれるときに安産を祈祷した慧照院(えしょういん)日長が、三沢局の寄進によって、山梨県にある身延山から七面大明神の分霊を招いて祀り、神社の中の寺(別当寺)として開きました。
 七面大明神は、慶安3年(1650年)に、法寿院日命が仏師・弥兵衛に作らせたことが胎内の銘文にかかれていたということです。秘仏とされ、七面堂に祀られ、毎月19日(※2)にご開帳されるということです。
 ※1.濃い青みがかったピンクのツツジは、花が落ち始めると積んでしまうそうです。
 ※2.今月19日はご開帳されません。 

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【やなか百景53】寛永寺坂-谷中と根岸をつなぐ坂道①

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 9日-JR鶯谷駅から日暮里駅までの一駅の間に、線路の左右を結ぶ坂道が4つあります。鶯谷駅から数えると、寛永寺坂、御隠殿坂、芋坂、紅葉坂。JRの線路は地形を利用して作られていて、日暮里に向かって左側の谷中は崖上となります。崖上から発見された新坂貝塚、天王寺貝塚や樹木から約6000年前頃は、この崖が海岸線だったと考えられています。
 さて、寛永寺坂は現在、2車線道路の陸橋となっています。説明標識によりますと、大正年間(1912-25)発行の地図から、この坂は大正10年頃に新設されたようで、当初は鉄道線路を踏み切りで越えていたそうです。現在の、跨線橋架設は1928年(昭和3年)8月1日で、坂の名前から寛永寺橋と名付けられました。坂の名前は、坂の上が寛永寺の境内だったことにちなんでいます。

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May 05, 2005

【やなか百景52】街角の手製吸殻入れ-団子坂下交差点

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 5日-団子坂下交差点で、手製の吸殻入れを見つけました。蓋をした灯油缶の蓋にタバコが入る大きさの穴が4つ。側面にはマジックで「タバコ吸いガラ入れ、町をきれいにしましょう」と書かれています。住む人の声が聞こえてくる気がします。

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May 04, 2005

【やなか百景51】著名な鋳物師の銅鐘-長明寺

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 4日-長明寺(谷中5-10-10)の銅鐘は、江戸時代の著名な鋳物師(いもじ)・椎名伊予良寛(しいないよ・よしひろ)が作ったということです。台東区教育委員会の説明板によりますと、椎名家は椎名伊予吉次(よしつぐ)を初代とする江戸時代の初頭に多くの作例を遺した鋳物師の名家で、椎名伊予良寛は1681年(延宝9年)頃から1700年(元禄13年)頃にかけて活躍し、約26点の作品(銅鐘19点、銅燈籠2対4点、宝塔・水盤各1点)が残っているとしています。その中には、上野寛永寺にある将軍家墓所の一つで4代将軍・家綱の墓の宝塔もあります。
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 長明寺の銅鐘は、総高122.9センチ、口径75.1センチ。銘文によると、1682年(天和2年)10月16日、屋代安次(やしろやすつぐ)が、生前に自分自身の死後の冥福を祈る、いわゆる逆修供養のために寄進したものだそうです。撰文は下総国飯高(現、千葉県八日市場市)の日蓮宗談林所(仏教の学問所)として知られる飯高寺(はんこうじ)の僧性孝、書は長明寺四世住職日習。

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May 02, 2005

【やなか百景50】延命地蔵尊-よみせ通り

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 2日-よみせ通りは、かつて藍染川だったところで、文京区と台東区の区境の通りです。この通り沿いの商店街のシンボルとなっているのが延命地蔵尊で、地蔵尊の祠に貼られた説明書きに次のようにあります。
 「-(前略)-今は信心篤い地元が地蔵尊の法要怠りなく、毎月の縁日の日(14日)にはお参りの方に生花とお供物(菓子)、甘酒等を無料にてお配りして喜ばれ、日増しに人も通って、通りの発展に寄与しています。何卒、下町人情温かみある通りをごひいきに」。
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 よみせ通りは、今では元気のよい呼び込みの声が響くことはありません。現代的な店舗と、軒先に商品を並べ、開け放した昔ながらの店舗が混在した通りとなっています。時とともに姿を変えていくまちなみですが、地蔵尊の祠の柱に、人情温かみを感じる貼り紙を発見=写真しました。

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May 01, 2005

【やなか百景49】よみせ通り

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 1日-よみせ通りは、谷中銀座とT字の形で続いている商店街の通りです。商店街を歩いていると延命地蔵が祀られている祠に通りの歴史が書いてありました。
 駒込染井から上の不忍池まで流れていた藍染川が1922年(大正12年)に暗渠になり、幅8メートルの通りが完成すると、商店が整い買い物通りとなり、朝市が立ち、午後からは両側500メートルに渡って露店の夜店が並び、大道芸が口上おかしく、また、夜店からは元気な呼び声が競い合って飛び交い、誰ともなく「夜店通り」と広く呼ばれるようになったということです。
 空襲でこの活況も途絶えましたが、戦後は復興も早く、名物の店も復活して人通りも戻ってきたものの、同時に、車の乗り入れも激しくなり、渋滞し、一方通行に交通を規制しても改善が見られなかったので、買い物の歩行者の安全第一を考えて、夜店を中止し、イベントも中元と年末の売り出しのみとなったということです。

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April 27, 2005

【やなか百景48】まちかどの自然発生型ベンチ-谷中7丁目

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 27日-谷中のすてきな景色を見かけました。住宅の土台コンクリートに腰掛けて休憩する女性です。
 谷中は、江戸のある町、寺町、下町と呼ばれて近年は散策やスケッチに訪れる人が増えています。魅力の一つに、都心にあってコミュニティ豊かなことがあげられています。
 実際、谷中に住んでみると、コミュニティが豊かといわれる所以は、路地が残っていることと関係があるように感じます。昔ながらの路地は近寄りがたく、その一方、発見もあり、魅力は深まる一方です。
 そして、路地を含めて、まちの成り立ちや住まい方に、コミュニティが豊かになるための仕掛けがあるからなのだとわかってきました。その一つが、このような自然発生型ベンチ。今朝も、陽だまりで、散策途中に一休みをしている人がいました。
 

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April 24, 2005

【やなか百景47】谷中・寺町の風景-先が見通せる!?

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 24日-先が見通せる!?というのは、谷中・寺町ならではの眺望。興禅寺(谷中5-2-1)の塀のから中を覗くと、卒塔婆の奥に平行して走っている隣の道路の向こう側にある店の青いテントが目に入ります。人家もなく、寺と寺が背中合わせに所在している寺町ならではの風景です。
 谷中の町は、薄皮まんじゅうに例えて、皮のように、道沿いに人家があり、餡の部分は墓地や寺だということです。
 また、谷中に寺が多いのは、1648年(慶安元年)に、江戸の市街化で、幕府の命令で神田から多くの寺院が移ってきたこと、1657年(明暦3年)1月の江戸大火(振袖大火)によって焼失した寺院が谷中に移ってきたことなどによるといわれています。
 

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April 23, 2005

【やなか百景46】猫アーティストの発表の場-谷中・ギャラリー「猫町」

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 23日-谷中で出会うネコでも、ここのネコはツワモノぞろい。そこは、猫アーティストの発表の場、谷中・ギャラリー「猫町」(谷中2-6-24)=写真上。陶芸・絵画・人形・彫刻・工芸など、猫をテーマに活動する全国のアーティストの個展が行われている猫専門のギャラリーです。石段を上り、くぐり戸を入ると、庭先で陶器のネコがお出迎えをしてくれます。
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 24日までは草田美津保個展「とらきち・ら・ら・ら」=写真下が開催中。粘土の原型に古裂ちりめんを貼って作られた猫たちが展示されています。鼻ホクロをつけ、チョコンと牙を覗かせてニタリと笑うユニークなネコたち。なんでも作っているときは、ネコというより人間をイメージして、「こんな人いたなぁ」と思いながら作っているのだそうです。
 続いて、28日(木)から5月8日(日)までは、もりわじん個展が開催される予定です。
 ◆谷中・ギャラリー「猫町」
 台東区谷中2-6-24 TEL&FAX03-5815-2293
地下鉄千代田線「千駄木」駅下車
 猫アートサイト「猫町プロジェクト」http://www.necomachi.com/

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April 21, 2005

【やなか百景45】観音寺(谷中5-8-28)

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 21日-谷中の築地塀の寺として観音寺=写真左は知られていますが、この寺は、赤穂浪士ゆかりの寺でもあります。
吉良邸討ち入りは「忠臣蔵」の題材として、広く世に知られていますが、47士に名を連ねる近松勘六行重(ちかまつかんろくゆきしげ)と奥田貞右衛門行高(おくださだえもんゆきたか)は、この寺で修行をして、のちに朝山(ちょうざん)大和尚となった文良(ぶんりょう)の兄と弟だったそうです。
 台東区の史跡説明板によりますと次のようにあります。
 「寺伝に、文良は浪士らにできうる限りの便宜をはかり、寺内ではしばしば彼らの会合が開かれたという。明治末の福本日南(ふくもとにちなん・1857-1921)の著作「元禄快挙録」には、勘六は死にのぞみ『今日の仕儀勘六喜んで身罷ったと、長福寺の文良へお伝え下されたい』と遺言したというエピソードが記されている。当寺はもと長福寺と称し、1716年(享保元年)観音寺と改称した。
 本堂に向かって右側にある宝蔵印塔=写真右は、47士慰霊塔として古くから伝えられ、現在でも霊を弔う人が訪れている。上部に四方仏を現す種子(梵字)、下部に宝蔵院陀羅尼経、1707年(宝永4年)三月吉日、長福寺六世朝山の名を刻む」。

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April 20, 2005

【やなか百景44】谷中・首ふり坂(三崎坂・さんさきざか)

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 20日-「谷中・首ふり坂」は、作家・故池波正太郎さんの短編のタイトルですが、この坂道は実在のものです。坂道を上るとかつていろは茶屋があったあたりで、その先は谷中霊園。下ると不忍通りを横切って団子坂となります。首ふり坂は、本当は三崎(さんさき)坂という名前です。三崎という地名の由来には諸説あるということですが、駒込・田端・谷中の三つの高台にちなんでいるといわれています。説明板には、1773年(安永2年)の「江戸志」によると「30年ほど以前、この坂の近所に首を振る僧侶がいたことから別名を首ふり坂というと」と書かれているのだそうです。
 ところで、池波正太郎著「谷中・首ふり坂」は、養子に入った武家の妻に辟易していた男が、初めて連れていかれた谷中の茶屋の怪力女に見せられて武士の身分を捨てた男の話。精力絶倫で、鼻持ちならない武家の妻が浮気現場の船宿に現れて、薙刀を振るうと、怪力でしおらしい愛人が男を庇って妻を川に投げ入れるシーンのおかしさ。勧善懲悪では語れない池波ワールドの妙味が谷中を舞台に描かれています。

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April 18, 2005

【やなか百景43】八重桜満開の養福寺

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 18日-谷中霊園の桜並木は花弁を散らしましたが、谷中では遅咲きの桜があちらこちらで、まだまだ美しく咲き誇っています。養福寺(ようふくじ・荒川区西日暮里3-3-8)の門前の八重桜も今が見頃です=写真上。境内には紅が中心に入ったウコンサクラが満開です。
 今回は、養福寺を紹介します。
 荒川区教育委員会の説明板によりますと、養福寺は真言宗豊山派(ぶざんは)の寺院で、補陀落山観音院(ふだらくさんかんのんいん)と号し、湯島円満寺の木食(もくじき)義高(1718年没)によって中興されました。
 江戸時代は、多くの文人たちが江戸の名所である「日暮里(ひぐらしのさと)」を訪れ、その足跡を残しています。養福寺では「梅翁花樽碑(ばいおうかそんひ)」「雪の碑」「月の碑」などからなる「談林派歴代の句碑(区指定文化財)=写真中央」や江戸の4大詩人の一人で漢詩、柏木如亭(かしわぎじょてい、1763-1819)を偲んで建てられた「柏木如亭の碑」、畸人(きじん)で知られた自堕落(じだらく)先生こと山崎北華が自ら建てた「自堕落先生の墓」などさまざまな文人の碑が残る寺として知られているということです。
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 さて、説明にある「談林派の句碑・梅翁花樽碑」ですが、談林派は、大阪の西山宗因(にしやまそういん、1605~1682、連歌師・詩人)を祖とする俳諧の一流派です。江戸時代初期に流行し、軽口俳諧などと呼ばれました。「好色一代男」の作者・井原西鶴(いはらさいかく・1642-1693)も宗因に師事し、俳諧師として活躍しています。養福寺の碑は1792年(寛政4年)に西鶴の100回忌を記念して建てられたということです。
 中央が梅翁花樽碑、左右に雪の碑、月の碑、左手前に菱形の標石があり、谷素外(たにそがい・)が供養にと建てました。碑は建立当時のものですが、雪の碑のみ、1808年(文化5年)に再建されたものだそうです。
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 この他に、山門正面にある朱塗りの仁王門=写真下は宝永年間(1704-11)の建築と伝えられています。なぜならば、表側に安置されている仁王像の胎内から宝永4年の銘札が発見されているからで、また、門柱上部等の木鼻(きばな)・蟇股(かえるまた)に見られる渦文の絵様の特徴が見られるからで、門も銘札とほぼ同じ時代のものと推定されているそうです。
 門の裏側には、4天王のうちの広目天と多聞天の像が安置されています。
 旧本堂など江戸時代の建物が戦災で失われた中、この仁王門は焼失を免れ、今にその姿をとどめています。
 境内には、鐘楼もあり、大晦日には、除夜の鐘を108つ、参拝者によって鳴らされます。

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April 14, 2005

【やなか百景42】本行寺-サクラとヤマナシ

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 14日-枝垂れ桜が人目を惹いた本行寺でしたが、今も遅咲きの八重桜=写真左ヤマナシ=写真右が満開です。この本行寺の本堂はコンサートなどの会場としても使われ、文化の発信地となっています。4日は「第6回はなしの里語りの会」が催され、女性3人が話芸を披露しました。
 荒川区教育委員会の説明板によりますと、本行寺は、1526年(大永6年)、江戸城内平河口に建立され、江戸時代に神田・谷中を経て、1709年(宝永6年)に現在地に移転しました。景勝の地であったことから通称「月見寺」とも呼ばれていました。20世日桓(にちかん)上人(俳号・一瓢)は多くの俳人たちと交流があり、小林一茶はしばしばこの本行寺を訪れ、「青い田の 露をさかなや ひとり酒」などの句を詠んでいます。
 儒学者市河寛斎、書家米庵父子や、幕末・維新期に活躍した永井尚志(なおゆき)などの墓があります。
 戦国時代に太田道灌が斥候(せっこう)台を築いたと伝えられる道灌物見塚がありましたが、現在は1750年(寛延3年)に建てられた道灌丘碑のみが寺内に残っています。

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April 13, 2005

【やなか百景41】紅葉坂-谷中7丁目

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 12日-桜の花弁散るこの坂道は、日暮里駅南口を谷中側に出て、天王寺方面に向かう道です。さらに進むと、天王寺脇を通り、谷中霊園さくら通りに出て、上野桜木方面に抜けられます。紅葉坂は、別名「幸庵坂」ともいわれましたが、その名の由来は不詳ということです。江戸後期の国学者・山崎美成(よししげ)(1796-1856)は「金杉日記」に「天王寺うら幸庵坂下、又三しま社のほとり秋色尤もふかし、林間に酒を煖む」と記しています。幸庵坂の名は、江戸時代後期には、すでにあったことがわかります。
 また、紅葉坂というからには、この坂道周辺の紅葉が美しかったのでしょう。今は桜並木でにぎわい、紅葉の面影すらありませんが、坂道の名前から風光明媚といわれた日暮らしの里で紅葉狩りをする人々を想像することができます。

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April 10, 2005

【やなか百景40】日暮里駅開業100周年ー記念オレンジカード発売

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  10日ー1905年(明治38年)4月1日にスタートした日暮里駅が2005年4月1日で開業100周年を迎えました。この100周年を記念してJR東日本(東日本旅客鉄道株式会社)は、開業100周年記念のオレンジカードを発売しています。販売価格は2000円。1000円分のカード2枚組で、B5版の黄色見開き4ページの冊子に収められています。 
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デザインは、日暮里駅西口駅舎風景の切り絵=写真下と谷中五重塔の切り絵=写真上。それぞれ祝日暮里駅開業百周年記念の文字が入っています。1000組限定発売で、JR日暮里のみどりの窓口で扱っているということです。
  JR東日本によりますと、日暮里駅の乗車人員は49位(2003年度)で、1日平均79,694人です。

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April 08, 2005

桜並木ー御殿坂(日暮里駅北口)

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  8日ー谷中の桜並木、今が見頃です。御殿坂も満開です。この坂道は、台東区と荒川区の境界線にもなっています。また、東京都公文書館にある江戸朱引図によると、御殿坂上に黒引き線が引かれています。谷中側が町奉行の支配地、西日暮里側が代官支配地となっていました。つまり、このあたりは御府内の範囲である「朱引き線」内ではあるけれど、御殿坂を境に、荒川区西日暮里は、郊外とされていました。江戸時代に思いを馳せることができるのも、江戸時代の道筋が平成の今に残っているからこそといえます。
  余談ですが、「一枚看板」と名奉行と讃えられた遠山の金さんこと、遠山金四郎景元(1793-1855)が、北町奉行所の管轄内、谷中の治安を守っていた時期もあったことになります。

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March 31, 2005

【やなか百景39】路地の明かり-谷中5丁目

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 31日-谷中5丁目にある路地です。蛍光灯ではなく、ランプの明かりが、人気のない路地を暖かく照らしています。ここの路地はジグザグ道。通りから見ると、行き止まりなのか、通り抜けられるのかがわからないようになっています。街灯なのに、住宅の壁に付けられています。

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March 21, 2005

【やなか百景37】谷中霊園の茶屋

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 21日-連休の最終日。暖かな陽射しの日中、谷中は墓参の人出でにぎわいました。
 谷中霊園の入り口には茶屋があります。この時期は、線香、花、サカキ、桶と柄杓、箒と塵取り、線香を入れて運ぶための空き缶などが店の前に置かれています。店で掃除も請け負うようで、自転車に掃除用具一式とをくくりつけて霊園と茶屋を忙しげに往復する姿を見かけました。

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March 20, 2005

【やなか百景36】谷中霊園さくら通り

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 20日-これは、谷中霊園の目抜き通り「さくら通り」です。桜並木で、つぼみが膨らんできています。今日は、墓参りの人出があり、日中、抜け道のない諏訪道(朝倉彫塑館前の通り)などは渋滞をしていました。
 このさくら通り、桜の季節は、花見で昼も夜もにぎわうところです。

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March 18, 2005

【やなか百景35】昔せんべい-大黒屋(谷中1丁目)

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 18日-上野桜木から根津方面に善光寺坂(言問通り)を下りきった交差点手前右角から、醤油の香ばしいかおりが漂ってきます。昔せんべい「大黒屋」(谷中1-3-4)です。店頭のガラスケースの中には、せんべい。ケースの上には、店名にちなみ商売繁盛の「大黒天」が鎮座しています。
 店内は、炉を前に2人で向かい合ってせんべいを焼いている姿。いくつものせんべいを網に乗せ、軍手をはめた手で休みなく焦げないようにあぶり焼き。作業をしながら見られるように奥にはテレビ。せんべいを買おうと声をかけると、作業の手を休め、膝のネコを下ろして、応対に出てきてくれました。せんべいは5枚で630円。のりせんべい、ごませんべいなどもあります。せんべいは、薄目で歯ごたえがあり、醤油の味は甘くない。渋いお茶と一緒に食べたい味。備長炭で焼いているそうで、食べ応えがあります。
※写真をクリックすると拡大されます。

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March 16, 2005

【やなか百景34】梅-上聖寺(谷中1-5-3)

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 16日-上聖寺の梅は、見事にしだれた枝に花をつけ、芳香を漂わせています。ほのかな香に鼻を上に向けているのは、石の上のブロンズの蛙。上聖寺は、みかんの大木が毎年のようにたくさんの実をつけ、それは見事なのですが、梅花も可憐な姿で通行人の目を楽しませています。
 ところで、この上聖寺は、池波正太郎著「鬼平犯科帖」の「谷中・いろは茶屋」に登場します。
 これは鬼平こと火盗改め長谷川平蔵という長官の捕り物帖で、「谷中・いろは茶屋」では、盗人宿である数珠屋の「油屋」の道路を挟んだ向かいが、この上聖寺で、「油屋」に入った怪しい人物を見張るために、鬼の平蔵の部下で、火付盗賊改方の同心・木村忠吾が、上聖寺に協力を求めています。 
 さて、この物語では盗人宿「油屋」の場所ですが、なんの因果か?実際は、上野消防署谷中出張所(谷中1-1-25)です。

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March 15, 2005

【やなか百景33】森田電機店-谷中1丁目

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 15日-台東区には、江戸時代から明治、大正、昭和初期までの都市建築の遺構が多く残されています。
 台東区が行った近代洋風建築調査の報告書をみると、谷中では、特に注目したい建物として、朝倉彫塑館と森田電機店が紹介されています。
 その報告書によりますと、森田電機店(谷中1-2-13)は、「木造2階建て、竣工年不詳、設計者不詳。言問通り沿い、文京区根津に近い商店街の一角に建つ商店。大正から昭和初期に建てられた銅板貼りの看板建築。とりわけ一階庇になっている唐破風が独特」ということです。
 この近代洋風建築の調査は、「町を散策し、より多くの近代建築と出会うことで、文化遺産を保存することの大切さを知り、町への愛着を深めてほしい」と台東区教育委員会が行ったものです。
 報告書の普及編「歴史を伝える近代のたてもの」(1999年3月発行)では、「台東区近代建築めぐり」と題して、12の地区に分けて、歴史、道や坂のストーリー、近代建築の分布傾向、注目すべき近代建築の特徴を解説し、その建物を結んだ12の散策コースが紹介されています。
 この調査を行った前野まさる・東京藝術大学名誉教授は「自分の町のよいところを知っていることは、地域住民にとって地域に誇りを持っていることの証であり、地域住民の町づくりのエネルギーとなるものだと思います」と書いています。
 

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March 11, 2005

【やなか百景32】区立岡倉天心記念公園-谷中5丁目

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 11日-岡倉天心(1862~1913)の像が置かれた六角堂のある区立岡倉天心記念公園(台東区谷中5-7)を道路から覗いたところです。細長く見えますが、L字型の土地で、中に入ると遊具もあります。入ったところに、「岡倉天心宅跡・日本美術院発祥の地」と書かれた石碑。
 東京都教育委員会によりますと、日本美術院は、1898年(明治31年)、岡倉天心が中心になって「本邦美術の特性に基づき、その維持開発を図る」ことを目的に創設された民間団体で、当初、院長は天心、主幹は橋本雅邦(1835-1908)、評議員に横山大観(1868-1958)、下村観山(1873-1930)などがいたということです。
 この場所に建てられた美術院は1898年9月に建てられた木造2階建てで、絵画研究室の南館と事務室・工芸研究室・書斎・集会室のある北館からなり、付属建物も2つ、3つあったそうです。
 1906年(明治39年)に美術院が茨城県五浦に移るまで、この地が活動拠点となっていました。
 岡倉天心に係る六角堂は3つあり、1つはここ谷中5丁目の区立岡倉天心記念公園内のもの、2つ目は五浦の太平洋に臨む岩壁の上に建てられた岡倉天心が設計した観瀾亭(かんらんてい)、3つ目は、屋根のみだが東京藝術大学内のもの。
 区立岡倉天心公園には、1966年(昭和41年)に建てられました。

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March 10, 2005

【やなか百景31】岡倉天心像(平櫛田中作)-区立岡倉天心記念公園

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 10日-谷中5丁目の区立岡倉天心記念公園内にある六角堂の中の岡倉天心(1862年12月26日~1913年9月2日)の像です。ブロンズ像で、平櫛田中(1872-1979)作。岡倉天心は、本名を覚三(かくぞう)といい、近代日本美術界の功労者といわれています。
 日本美術の古来の伝統を保存しようと、アメリカ人教師フェノロサとともに東京美術学校開設に尽力しました。東京美術学校(今の東京藝術学校)は、1887年(明治20年)に創設され、岡倉天心は、1890年(明治23年)には校長に就任しています。しかし、伝統尊重派と欧化派との対立の末、東京美術学校長、帝室博物館理事兼美術部長を辞職。その後、岡倉天心は、日本美術院を創設しました。
 また、アメリカのボストンに一年間滞在し、英語で「東洋の思想」、「日本の覚醒」、「茶の本」を出版。日本文化の海外紹介に力を尽くしています。
 さて、この岡倉天心の服装ですが、古代文官の格好だそうで、東京美術学校教師の黒川真頼(まより)のデザインによるもので、当時の東京美術学校の制服だそうです。教師も学生も同じ制服で、ちょっと変わった格好なので、よく目に付いたそうです。岡倉天心は毎朝、根岸の自宅からこの制服姿をして、馬で学校に通ったといわれています。
 余談ですが、黒川真頼は、裁判官の正装もデザインした人だそうです。

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March 09, 2005

【やなか百景30】みしま地蔵尊-谷中3丁目

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 9日-明日10日は、東京大空襲から60年を迎えます。下町地域中心に爆撃され、一般市民を巻き込んで一晩に10万人を超える死者を出すほどの戦災だったことが報道されています。
 谷中も10日に先立つこと6日、1945年(昭和20年)3月4日午前8時40分頃、小雪降る中、B29爆撃機から空襲を受け、死傷者約500人、全半壊家屋約200戸の被害が出たということです。
 台東区教育委員会の史跡説明板によりますと、このみしま地蔵尊は、1948年、当時の三崎町、初音町4丁目、真島町の有志が3町会の戦災死者70余人の霊を永久に供養しようと建立されました(谷中3-7-1。区立初音児童遊園地)。
 ちなみに、みしまは、「三崎町の三(み)、初音町4丁目の4(し)、真島町の真(ま)」の町名からそれぞれ一字をとったもので、三四真地蔵とされたということです。

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March 08, 2005

【やなか百景29】掲示板で親子競演-海老名香葉子さんと林家こぶ平さん

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 8日-町会の各種案内や行政の広報のための掲示板で、海老名香葉子さんと林家こぶ平さん親子のポスターが並んで掲示されているところを見つけました。
 海老名香葉子さんの方は、「東京大空襲被災60周年平和のつどい」の案内で、10日(木)午後2時から浅草公会堂(台東区浅草1-38-6)で台東区の主催で催されます。入場無料、先着1000人まで。
 第1部では、東京大空襲で家族6人を亡くし戦災孤児となった海老名香葉子さんが「戦禍に残された一つの命」をテーマに講演。
 第2部は、海老名香葉子さんの体験をもとにしたアニメ映画「うしろの正面だあれ」の続編で、8月公開予定のアニメ映画「あした元気になあれ~半分のさつまいも~」のダイジェスト版の紹介と、この映画の監督・中田新一さんと海老名香葉子さんとの対談。さらに、海老名香葉子さんと谷村新司さんが平和を願い作詞、作曲した映画の主題歌「連花(れんか)」を林明日香さんが歌うということです。
 次に、林家こぶ平さんは、「九代林家正蔵襲名記念・林家こぶ平下町感謝の日」と題して、13日(日)に行われる「パレードとお練り」の進行予定と下町の皆様ありがとう!こぶ平、感謝! 感謝!! の落語会の招待案内。落語会の申し込みは締め切られましたが、「下町出身こぶ平の晴れ姿をぜひとも見てください」とパレードの予定が載せられています。
 午前10時30分に上野鈴本演芸場を出発し、JR上野駅(午前11時20分予定)-上野寛永寺(12時30分頃予定)-言問い通り(寛永寺橋)-雷門通り(午後1時30分頃予定)-浅草仲見世-伝法院通り-浅草演芸ホールに到着するということです。
 同行者は、林家木久蔵さん、春風亭小朝さん、笑福亭鶴瓶さん、 立川志の輔さん、林家いっ平さんなどが予定されています。

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March 07, 2005

【やなか百景28】経王寺山門の銃痕

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 8日-大黒山経王寺(荒川区西日暮里3-2-6)の山門には、銃痕があります=写真。この銃痕は、1868年(慶応4年)の上野戦争の時に、敗走した彰義隊の士をかくまったため、新政府軍の攻撃を受けたことによるものだそうです。彰義隊は、政権を朝廷に返上したものの鳥羽・伏見の戦いが起きたことで、東叡山寛永寺に恭順謹慎した徳川第15代将軍・慶喜の名誉回復を目的に集まった志士たちで、彰義隊は「忠孝信義の義を彰し、義のために戦う」という意味なのだそうです。
 この経王寺の山門は、荒川区登録有形文化財に指定されています。
 経王寺は、日蓮宗で、1655年(明暦元年)、この地の豪農・冠(かんむり)勝平(のちの新堀村名主・冠権四郎は子孫)が要詮院(ようせんいん)日慶のために寺地を寄進し、お堂を建立したことに始まるとされています。
 山門を入って右手にある大黒堂には、日蓮上人の作と伝えられる大黒天が祀られています。

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March 06, 2005

【やなか百景27】石敢當(いしがんとう)とネコ-谷中7丁目

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 6日-石敢當(いしがんとう)を見つけました。谷中7丁目界隈を根城にしている茶黒ブチのネコ。空き地に置かれたトラックのタイヤのにおいを嗅いだのち、人の気配を嫌って、道を横切り、空き地の植え込みに姿を隠して偵察。そのネコをしつこく追いかけたところ、縁石に石敢當(いしがんとう)と木彫りの札が貼られていることを見つけました。
 この道は、週に一度は通るほどの頻度で通っているにもかかわらず、ここ2年、気がつかなかったので、まさにネコに教えられたことになります。
 石敢當(石敢当・いしがんとう)は、インターネットで検索すると、沖縄独特の魔よけで、T字路や三叉路でよく見かけるそうです。
 谷中7丁目の石敢当もT字路のつきあたりに置かれています。谷中は霊園があり、寺町です。寺や墓地と共存していく日々の生活やまちに住む人たちの心の中に、目に見えないものに対する畏敬の気持ちが残り、受け継がれていることを感じました。
 ※石敢当の右奥に、茶黒ブチのネコがいるのですが・・・。

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March 04, 2005

【やなか百景26】春の雪-観音寺の築地塀

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 4日-3月の東京に積雪。谷中も深夜から雪が積もり始め、4日朝は、通勤・通学者の足を鈍らせました。観音寺(谷中5-8)の築地塀は、降りしきる雪の舞の背景として、いにしえの趣を醸し出していました。雪が降っていなくても、ここは映画の舞台になったり、和服情報雑誌などのロケに使われたりしているそうです。谷中の観光スポットの一つで、週末にはカメラを手にした人の姿もよく見かけます。瓦と瓦の間は、土が落ちないようにアスファルトで塗り固められています。どうやら風雨もさることながら、歴史を感じさせる塀に触ってみたいという人たちによる破損を防ぐことも必要なようです。

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March 03, 2005

【やなか百景25】雛まつり-谷中5丁目のポスト

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 3日-雛まつり特別企画!ショーウインドウに飾られた雛人形です。このウィンドウの下の横長の穴は、手紙や葉書を入れるところです。場所は、全生庵に突き当たる路地に面した一画。この郵便受けは、「どうだ!」ではなく、「どうぞ」という雰囲気で、郵便集配の人は絶対気づくけど、路地に迷いこんだ人には目につきやすいような、見過ごしそうな、何とも微妙なしつらえ。この心遣いと粋なおもてなしは、谷中の魅力の一つだと思います。

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February 26, 2005

【やなか百景23】芸大卒展-26日まで開催

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 26日-東京藝術大学美術学部と大学院美術研究科が22日から26日まで、東京都美術館と東京藝術大学大学美術館などを会場に、卒業・修了作品展を開きました。絵画科、彫刻科、工芸科、建築科、デザイン科、藝術学科の学生470人が学生生活の集大成を発表。会場には、発表者の両親や友人、他大学を含む芸術関連学部の学生や高校生などの姿が見られました。
 漆芸で「向かい合う時間」というテーマで、直径85センチの漆黒の円型作品を三点=写真中央奥作った平野晴子さんは、「黒の中でも、漆の黒が一番深みがあり、映りこむ色によって表情を変えると思うので、それを味わってもらおうと思いつくりました」と、会場に訪れた見学者に説明をしました。

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February 24, 2005

【やなか百景22・春夏秋冬09】谷中七福神⑥大黒天

護国院(台東区上野公園10-18)
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 谷中七福神のひとり、大黒天が祀られているのは、上野・東叡山護国院です。東叡山でわかるとおり、かつては寛永寺36坊の一つで、今もなお東叡山釈迦堂ともいわれています。
 寛永寺は、徳川家康が江戸幕府を開いたときに、天海大僧正(慈眼大師)と相談して、江戸城の護り寺・鬼門除けとして創建されたといわれています。これは、京都御所の鬼門除けとして建てられた比叡山延暦寺に倣ったもので、不忍池を琵琶湖に見たて、竹生島弁才天の代わりに、不忍池にも中島を築き、弁才天を祀っています。
 台東区史によりますと、寛永寺の建築は、三代将軍家光時代に始まり、主要な建物がそろったのは五代将軍綱吉の時代で、その間およそ70年を費やしています。この江戸最大の寺院は、寺領約1万2000石。浅草寺、増上寺が500石からみて別格でした。
 さて、護国院はというと、上野の山が開かれて最初に建てられたお堂で、1630年(寛永7年)に落成しました。1717年(後享保2年)に焼失し、1723年(後享保7年)に再建されて現在に至っています。
 縁起によりますと、1638年(寛永16年)・大阪落城25年、豊臣・徳川両軍の戦死者の霊を弔うために法要が行われた際、三代将軍家光は、国の護り、人々の福運を長く祈ってほしいと願い、大切に秘蔵していた藤原信実郷がかいた大黒天画像を、護国院の開祖・生順大僧正に贈ったことから、それ以来、護国院大黒天として信仰されてきたということです。。

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February 23, 2005

【やなか百景21・春夏秋冬08】谷中七福神⑤福禄寿

東覚寺(とうがくじ)(北区田端2-7-3)
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 23日-谷中七福神の福禄寿は、JR田端駅から徒歩5分の東覚寺に祀られています。
 東覚寺は、室町時代の1491年に現在の千代田区万世橋付近に開創されたお寺で、1600年頃に田端に移ったということです。田端八幡宮の隣にあるお寺(別当寺)です。
 福禄寿は元旦から15日まで御開帳されます。
 平素は、門の前にある2体の金剛力士像が人目を引きます。これは赤紙仁王像で、自分が病を患っている部分と同じところに赤紙を貼ると治るという言い伝えがあり、治ったときは草鞋を奉納するのが習わしになっています。

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February 15, 2005

【やなか百景19】下御隠殿橋-JR4線並走を一望

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 15日-日暮里駅は橋上駅です。北口を出ると、そこは下御隠殿橋(しもごいんでんばし)という橋の上となります。そこは、日暮らしの里の高台を遠目に、その崖下に走る線路は、JRでは高崎線・宇都宮線、東北・上越新幹線、山手・京浜東北線、常磐線と、京成線の走行姿を見ることができます。
 このビュー・スポットには、時計とその下に「主な特急列車の見える時刻(上り)、平成7年4月時点」として、やまびこ(つばさ)・北斗星・スーパーひたち・スカイライナーの時刻案内板があります。
 ちなみに、JR東日本によると、「スーパーひたちは、常磐線の看板特急。JR東日本が開発した初の特急形電車で、それまでの国鉄車両にはない新鮮なデザインが話題となった。室内は落ち着きのある雰囲気で、乗り心地もよくゆっくりできる。最高時速130キロ運転はテビュー当時の在来線としては初めてのことだった」ということだ。
 また、 北斗星については、「“ブルートレイン”として親しまれている寝台特急を代表する客車。1988年3月、青函トンネルの開通により、本州と北海道を結ぶ寝台特急・北斗星が誕生。この列車は、単なる移動手段ではなく、動くホテルのようなサービスをめざした。そのため、シャワーを備えたA寝台1人用個室・ロイヤル、A寝台2人用個室・ツインデラックス、B寝台1人用個室・ソロ、B寝台2人用個室・デュエット・などを開発、編成に加えている。また、食堂車ではフルコースのフランス料理のディナーも楽しめ、人気を集めている」と紹介している。
 さらに、新幹線やまびこ(つばさ)の車両案内は、こちら
 

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February 10, 2005

【やなか百景18・春夏秋冬07】谷中七福神④布袋尊

修性院(荒川区西日暮里3-7-12)
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 このユニークな表情の布袋尊は、木彫で、江戸時代中期に作られたそうです。
 運啓山修性院の案内書きによりますと、修性院は、1575年(天正3年)、当時は感応寺だった現在の天王寺・第6世修性院日運上人によって開創され、元禄年間(1688-1704)に、今の地に移転しました。
 江戸時代後期からは「花見寺」と称され、江戸庭園名所でした。これは、1756年(宝暦6年)、庭造りの名人・岡扇計によって、庭に山を造ったり、花木を植えたりと遊覧の地とされたもので、また、茶屋もできて、桜の咲く頃など、朝から夕刻まで、多くの人出でにぎわい、寛政期(1789-1800)には花見の時に、長唄や浄瑠璃、歌や俳諧の会なども催されたということです。
 また、正岡子規(俳人、歌人・1867-1902)も修性院を次のように詠んでいるそうです。
 踊るかな 春の夕日の 影法師
  踊れ踊れ 花のちるまで 暮るるまで

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February 09, 2005

【やなか百景17・春夏秋冬06】谷中七福神③毘沙門天

天王寺(台東区谷中7-14-8)yanaka0209
 9日-「威光」のご利益がある谷中七福神のひとり・毘沙門天は、天王寺に奉られています=写真(1月9日天王寺客殿内掲示写真)
 この毘沙門天は、この寺院が幕府の命により日蓮宗から天台宗の寺院として改宗した時に、奉安された新本尊だということです。これは、幕府の祈祷寺・東叡山寛永寺が、江戸の鬼門に置かれ、また、京都の比叡山延暦寺になぞらえて上野の地に建立されたことと同様、延暦寺の北方にある鞍馬寺が毘沙門天を奉っていることにならい、天王寺が寛永寺の北方にあることから、比叡山飯室谷円乗院から伝教大師の手によるとされる毘沙門天を本尊として、国家安穏・仏法護持を祈願したということです。
 本尊は、明治になってから、阿弥陀如来坐像に変わっています。
 この天王寺は、鎌倉時代後期に土豪・関長輝(せき・ながてる)が、この地に立ち寄った日蓮聖人に帰依して草庵を造り、弟子の日源が聖人の手による像を祀って、長輝山感応寺と称したのが始まりと言わる谷中でもっとも古い寺です。
 この寺は、1700年(元禄13年)には、幕府から富くじの興行を許され、目黒不動・湯島天神とともに「江戸の三富」に数えられてにぎわったことでも知られています。
 また、この天王寺の五重塔は、文豪・幸田露伴が小説「五重塔」を書いて有名になり、「谷中の五重塔」として親しまれましたが、残念ながら、昭和32年に放火によって焼失しています。

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February 08, 2005

【やなか百景16・春夏秋冬05】谷中七福神②恵比寿

yanaka0208青雲寺(荒川区西日暮里3-6-4)
 谷中七福神のひとり、恵比寿は、日暮里の青雲寺に祀られています。寺によりますと、この恵比寿神は、昭和40年に復興開眼されたそうです。
 この青雲寺は、臨済宗浄居山青雲寺といい、京都花園妙心寺派の禅寺で、下総佐倉の堀田家代々の祈願寺だったということです。
 この青雲寺のあるあたりは、江戸時代の宝暦年間(1751-64)には、観音堂、弁天本社、金毘羅、富士浅間宮、大黒の秋葉社、布袋堂、護国稲荷、恵比寿堂、日暮宮など、諸祠堂が境内にあり、大庭園が切り開かれて、妙隆寺(現在は移転)、修性寺とともに、江戸時代の町民の憩いの場、文人墨客が訪れる遊覧の場であり、上野、日暮里、王子の桜の名所として、「花見寺」として親しまれ、にぎわったということです。
 しかし、1808年(文化4年)に焼失し、文政(1818-29)の頃には廃園となったとしています。
 その後、青雲寺は、明治に杯って再興されたものの、第2次大戦の大空襲で再び焼失。現在の重層造りの本堂は、昭和35年に10世義貞和尚の代に再建されました。
 境内には、昔、この辺りが、豊島川に続いた入り江で、遠くから船の目標になっていたという松の石碑「道灌船繋松の碑」が残されています。この松は枯れて今はありません。

 そのほか、南総里見八犬伝などの著者・滝沢馬琴にちなんだ碑がみられます。
1798年(寛政10年)に建立された硯の形をした滝沢馬琴の硯塚。そして、「春の雪 跡や煙の麦畑」と書かれた1810年(文化7年)建立の筆塚。また、享和年間(1801-03)の狂歌師・安井甘露庵を祀る馬琴筆の安井金毘羅宮、金毘羅権化鎮座碑および歌碑「雲と雪と五分五分に見る山桜 もう一寸も目をはなされじ」があります。

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February 05, 2005

【やなか百景15・春夏秋冬04】谷中七福神①寿老人

長安寺(谷中5-2-22)yanaka0205
 5日-谷中七福神めぐりの一カ所、寿老人が奉られているのが長安寺です。元旦から1月15日までご開帳されます。この寿老人にまつわるいわれがあります。旅をしていた老人が、この地にとどまって、長安軒と名づけたお堂を建てた。徳川家康が納めた寿老人を安置していたところ、老山和尚が日暮れに通りかかり、長安軒に一夜の宿を求めた。その夜、老翁が、和尚にいうには、「立派な人にお堂を譲りたいと思っていたところ、今夜あなたが泊まった。お堂をお守りしてもらいたい、寿老人の福をよく人々に祈願するよう、教え諭してほしい。この里は将来、七福神を祀る地となるであろう」と語った。そのとき、枕元で鐘の音が響き、びっくりして和尚が頭をあげてみれば、夢でのできごとだったものの、老翁は見当たらず、やむを得ず和尚は長安軒にとどまることになったということです。
 この長安寺は、老山和尚が1669年(寛文9年)に開創し、八代翆巌和尚が、現在のお堂を再建して、今日に至るということです。臨済宗妙心派。本尊は、千手観音菩薩。西国33番札所のうちの22番惣持寺の写し。

 メモ:
 寿老人は、中国の道士で、白ひげを蓄え、鹿を従えている老人で、福禄寿と並んで長寿の福を授ける南極星の化身と伝えられています。長安寺の寿老人は、等身大の寄木彫刻で、左脇に鹿を従えた坐像=写真(1月9日撮影)。
 いわれの中で、老翁は、老山和尚に、「寿老人は福徳自在の神。いのち長くして諸願を果す福、父母に孝行の福、子なき人には子孫繁栄の福、病人には諸病平癒の福、戦火もなく財禄増進の福、農家には五穀豊穣の福、商人には商売繁昌の福を授け与える神である」と伝えたということです。

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【やなか百景14】善光寺坂

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 4日-谷中の台地から文京区根津には坂を下ることになります。その根津へ坂道の一つが、この善光寺坂=写真(1月30日撮影)です。「たいとう名所図会・史跡説明板ガイドブック」(台東区教育委員会発行)によりますと、この善光寺坂は、信濃坂ともいい、坂の上の北側にあった善光寺にちなんだということです。善光寺は1601年(慶長6年)に信濃善光寺の宿院として建立され門前町もできたのですが、1703年(元禄16年)の大火に類焼した後、青山(港区青山3丁目)に移転しました。ただ、善光寺門前町という名称のみ、明治5年まで、坂の南側にあったそうです。
 この善光寺坂は、1772年(明和9年)刊行の「再校江戸砂子(さいこうえどすなご)」に出てくるほか、1826年(文政9年)の「御府内備考」では、幅2間(約3.6メートル)、長さ16間(約29メートル)、高さ1丈5尺(高低差約4.5メートル)ほどとあるということです。
 今よりも、坂の部分は急勾配で短かったのでしょうか?

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February 03, 2005

【やなか百景13】サンシャイン60の遠景

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 3日-谷中をガイドブックを片手に散策していると、「どこいくの?」と声をかけられることがある。ちょっとした下町ブーム、散策ブームで、週末ともなると、谷中を観光に訪れる人も目に付く。「生活の場」だからと、不快に思う人もいる一方、気軽に声をかけてくれる人もいる。そんな親切な即席案内人が「いいもの見せたげる」と、教えてくれた風景。路地は突き止まり。遠方に見えるのが、池袋のサンシャイン60のビル。谷中の台地部分の路地から、遠方の高層ビルが見える都心でも珍しいところ。

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January 30, 2005

【やなか百景12】日暮里富士見坂

ダイヤモンド富士の眺望ならず-明日は?
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 30日-日暮里の富士見坂は、東京・山手線内にもかからわず富士山を眺望できる坂道です。「富士山頂に夕日が沈む風景が見られるかもしれない」と、カメラを手にした人など約300人が午後4時53分の日没を待ちました。この日は、山頂付近に雲がかかり=写真、残念ながら、日没をはっきりと拝むことはできませんでしたが、かすかに稜線沿いに沈んでいく太陽の光を見ることができ、「まるで富士山が燃えているみたい」というささやきが聞かれました。
 日暮里・富士見坂から見た場合、太陽がちょうど富士山の頂付近に沈むように見えるのが、1月30日前後と11月11日前後の年2回。高層ビルの屋上ではなく、江戸時代の人たちも眺めたであろうという土地で、山手線内というと、現在は、この日暮里の富士見坂と、大塚の富士見坂の2カ所のみで、大塚の方は、稜線の一部が見えるのみとなっているそうです。
 日暮里から富士山までの眺望ライン上には、文京区、新宿区の幹線道路沿いの高層ビルが建てられる区域もあり、1990年当時の写真と比べますと、高層マンションなどの建設により、富士山の左稜線が隠されるなど、景観は悪化しています。
 それを憂い、「日暮里富士見坂からの眺望は、風景遺産として、21世紀中に再び富士山の全景を望む風景を取り戻したい」と、事業者や地権者の人たちへの理解や行政の支援を求めて、活動している人たちがいます。
 それは、日暮里富士見坂を守る会で、メンバーは約30人。定期的な観測のほか、見物人でごった返す日没時には、警察の指導のもとで、交通整理をしたり、見物に訪れた人たちなどに、景観を守ることへの理解を呼びかけたりしています。
 そのような中、この貴重な眺望は昨年11月、国土交通省による「関東の富士見100景」の一つに選定されました。
 これによって、今後、富士見眺望と周辺地域が一体となった景観保全事業が進められ、富士見についての住民などの活動が支援されるということです。風景遺産として、広く人々に知ってもらい、大切に保全したいという共通の思いが広がる足がかりとなることが期待されます。
 守る会の人によりますと、富士山は、秋から冬の寒くて風のある日に見られることが多く、春から秋は霞んでしまうのだそうです。そして、いくら東京が快晴でも、富士山周辺の天候によっては、見られないなど、富士山頂への日没が見られるのは好条件がそろったときとなるとのこと。何年か前には、富士山頂に太陽が、まるでジュッと音を立てるように沈んだ光景が見られたことがあったそうです。
 また、ダイヤモンド富士とは、富士山の影に沈んだ夕日が、明るく輝く一瞬を捉え、後光のように見えることを言うのだそうです。
 さて、明日は、天候に恵まれれば、富士山頂の右肩をかすめ、右稜線沿いを沈む日没とダイヤモンド富士が見られることでしょう。

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January 29, 2005

【やなか百景11】観音寺の築地塀

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 29日-観音寺(谷中5-8)に残る江戸時代の築地塀です。築地塀とは、柱を立て、板を芯として泥で塗り固め、かわら屋根をふいた塀のことで、宮殿・社寺・邸宅に使われたそうで、さらに、瓦を横に並べて、練った土と交互に入れた土塀を特に「練塀」ともいうそうです。谷中の観光スポットの一つです。1992年、台東区まちかど景観コンクールで「まちかど賞」に選ばれています。

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January 28, 2005

【やなか百景10】東京芸大のフェンスを食べるシダレヤナギ

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 東京藝術大学音楽学部の正門から谷中方面にフェンスをたどって歩くとこのフェンスを食べるシダレヤナギに出会えます。

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January 27, 2005

【やなか百景09】日暮里駅西口北改札

日暮里舎人線開通に向け日暮里駅舎改築工事始まる
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 26日-JRと京成が乗り入れている日暮里駅北口改札の西口で、駅舎改築に向け工事機材置き場を作る工事が始まりました。これは、日暮里・舎人線の起点が日暮里駅となることから駅舎が改築されるもので、現在は階段のみの北改札東口の駅舎入り口も、身体障害者用エレベータの設置などバリアフリー化が進められる予定です。また、JRはこれを機に、北改札からホームまでのエレベータやエスカレータも設置する考えだということです。
 日暮里・舎人線は、起点の日暮里駅から終点の足立区の見沼代親水公園駅(仮称)までの約9.8キロを、「ゆりかもめ」のような専用ルートを走る新交通システム機関で、2007年度完成を目途に、インフラ部分を東京都が、インフラ外部(車両基地・駅舎内部・システムなど)を都の第3セクター・東京都地下鉄建設が整備しているということです。

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January 25, 2005

【やなか百景08】上野公園

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 25日-女性ボーカルによる澄んだ歌声と男性の長蛇の列。東京愛宣キリスト協会が、上野公園で床屋と炊き出しサービスをしていました。協会のスタッフに尋ねたところ、「私たちは毎週火曜日に来ています」という返事でした。お箸を手に列を作って炊き出しの配給を待っている人の中には、女性の歌声に合わせて一緒に歌を口ずさむ人も見られました。

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January 23, 2005

【やなか百景07】路地の落書き

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 23日-谷中は、江戸時代の町割りが残っているところといわれ、たくさんの路地があります。この路地では朝早く、路地を掃くほうきの音が聞こえてきます。続いて、通勤・通学のために駅に急ぐ足音。日中は、首に鈴をつけた犬が散歩する音、宅急便や生協の配達の人が、車が入れないためにカートで荷物を運ぶ音、小鳥のさえずりも聞こえてきます。そして、夕方は学校から帰ってきた子供たちが路地いっぱいでボール遊びをしたり、鬼ごっこ、かくれんぼなどをする弾んだ甲高い声が、空が暗くなるまで続きます。ときには、路地いっぱいに落書きも=写真。そして夜。寒くなると、夜回り、夜警の拍子木の音。車の音がないから、生活の音が聞こえてくるのかもしれません。

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January 21, 2005

【やなか百景06】幸田露伴居宅跡の珊瑚樹

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 21日-文学者で小説家の幸田露伴(1867~1947)は、24歳(明治24年)から26歳のほぼ2年間、谷中7丁目に住んでいました。当時は、下谷区谷中天王寺町21番地でした。彫刻家・朝倉文夫のアトリエ兼住居(1883~1964)だった現在の台東区立朝倉彫塑館に隣接した一画で、現在は4軒の住宅が建っています。
 この場所は、路地を挟んで谷中霊園に面しています。フェンスの向こうには墓石と緑が広がり、露伴が小説「五重塔」の筆を進めながら、関東でもっとも高かった高さ約34メートルで総ヒノキ造りの天王寺五重塔を毎日眺めていたであろうことを想像するのは難しくありません。
 五重塔は、1643年(寛永20年)に天王寺の前身・感応寺の五重塔として創建されました。1772年(明和9年)に焼失したのですが、1791年(寛政3年)に棟梁・八田清兵衛らによって再建されました。露伴の小説「五重塔」に出てくる大工の十兵衛は、この清兵衛がモデルといわれています。
 幸田露伴は、下谷三枚橋横丁(現・上野4丁目)に生まれました。谷中で2年間暮らした後は、京橋丸山町(現・中央区)へ転居したということです。昭和22年7月没。墓所は大田区池上本門寺。
 さて、露伴の住んでいた当時の面影は現在、残念ながらまったくありませんが、台東区教育委員会の史跡説明板によると、邸宅跡に育っているサンゴジュ=写真は、露伴が住んでいた頃からあったということです。
 

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January 20, 2005

【やなか百景05】東京芸術大学音楽学部の門

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 谷中は、東京大学や東京芸術大学に挟まれた、学生の街ともいえます。この門は東京芸術大学音楽学部の正門です。レンガ造りの門柱に、木造りの大きな門には、くぐり戸が設けられています。大きな楽器を抱えた学生が、校外に出ようと、狭いくぐり戸に苦労して姿を見かけることもあります。道路を挟んだ向かいは美術学部となっています。

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January 19, 2005

【やなか百景04】朝倉彫塑館の屋上

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 19日-台東区立朝倉彫塑館の玄関から建物の屋上を見ると、今にも飛び降りそうな姿勢の男性の彫刻があります。朝倉文夫の作品「砲丸」です。この屋上も必見です。谷中が360度眺望できるほか、オリーブの木が育ち、庭園となっています。彫刻界の巨匠・朝倉文夫が構想し、昭和10年に完成されたこのアトリエは、すでに、屋上緑化がなされているのです。

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January 17, 2005

【春夏秋冬03】七福神詣でその2

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 16日-谷中七福神詣は元旦から15日まで、ご開帳されました。私は元旦と9日の2日間で、この版画を手に、東覚寺(福禄寿)・青雲寺(恵比寿)・修性院(布袋尊)・長安寺(寿老人)・天王寺(毘沙門天)・護国院(大黒天)・不忍池弁天堂(弁財天)を巡り、ご朱印をいただきました。長安寺の案内書に、明治初年頃の「七福神詣で巡拝案内図」が載っています。今も当時と同じ道を歩いて参拝していることがわかります。

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January 14, 2005

【やなか百景02】朝倉彫塑館の玄関

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 13日-台東区立朝倉彫塑館の玄関です。朝倉彫塑館は、明治・大正・昭和と活躍し日本彫刻界の最高峰といわれた朝倉文夫の記念館で、朝倉文夫氏自身が独創的な発想で設計した数奇屋造りの母屋と一面池の日本庭園、創作活動や私塾を開いて後進の指導にあたったアトリエが公開されています(昭和10年完成)。館内は、朝倉文夫の代表作「墓守」やネコを題材とした作品、朝倉氏自らがデザインをした調度品や遺愛品が展示されています。この東洋と西洋が見事に調和した感のある館の玄関ですが、現在こちらは開閉されず、アトリエ側の玄関を正門としています。朝倉彫塑館を訪ねてもこの風景をご覧になる方は少ないと思います。

入館案内
開館時間:午前9時30分~午後4時30分まで
休館日:毎週月・金曜日(月・金が祝日のときは翌日)・年末年始・特別整理期間等
入館料:一般個人400円・小学生個人150円(20人以上は団体料金割引あり)
参考:視覚障害のある人は彫刻に触れて鑑賞できます。
所在地:東京都台東区谷中7-18-10
電話:03-3821-4549
http://www.taitocity.net/taito/asakura/

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January 13, 2005

【やなか百景01】日暮里駅北口の夜景

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 12日22時30分-JR日暮里駅北口改札から谷中方面に出たところです。山の手線内ですが、高層ビルのある都心といった風景とは違い、左手は谷中霊園です。坂道は「御殿坂」。坂道を上がったところにあるコンビニが、商店では唯一深夜営業をしています。都会の喧騒からは、また別の世界です。

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